些細な一言で深く落ち込んでしまうのは、もともと自分が自分に対して否定的な態度をとっているからである。相手のその一言で自分の価値を全否定されたような気持ちになる。
言葉そのものは、まさにその人のある部分を否定したに過ぎない。
例えば「あなたの、その食べ方が気に入らない」ということにしか過ぎない。あるいはフォークの使い方がおかしいのではないかという言い方である。
しかし自己蔑視している人やナルシシストは、その言葉で自分の存在そのもの、自分の価値そのものを否定されたように感じてしまう。
したがって人の何気ない言葉に深く傷ついたときに、必死になって怒りを抑えても、それでその人の心の問題は解決しない。
傷ついたときに、いかに自分が自分に対して否定的な態度をとっていたかということに気がつき、それを改めることが問題解決には重要である。
自分に対する自分の態度を改めないで、必死で怒りを抑えて生活をしても消耗するだけである。表面的にことは収まっていっても、心理的な問題は未解決のまま残る。
自己蔑視している人は、相手の言うことが自分の価値を否定したと受け取ってしまう。
相手にはそのつもりはない。
自分の側に、常に自分に対する否定的な態度があるから、相手の態度や言葉が自分の価値を否定したと受け取ってしまう。
外化(自分の理想を相手に反映しようとすること)であり、動機混同(相手の行動の動機を自分の動機と混同すること)である。
心に傷を持つと、どうしても自分が自分に対して否定的な態度になってしまう。
誇大な自己イメージは
深刻な劣等感が表出したもの
高慢な態度と卑屈な態度は同じコインの表と裏である。
「予備校において自分の愚劣さにうちひしがれていた」と言う人がいる。○○大学に入れば劣等感が消えるかと思って○○大学に合格したがそれもダメ。○○大学に入ったが自分の学部に劣等感を持つ。他の学部が何か高尚な学部に思える。
その彼がかつて「俺は神だ」と言っていた。高校時代に「俺は神だ」とか「世界征服をしてやる」と本気で考えていたこともある。「実際に実行しようとして軍事などについて研究までした」と言う。
「自分ではなぜあんなことを言ったのだろうか」と今になっては思うと彼は言う。
それは彼が「俺は神だ」と叫ぶことでしか現実を乗り切ることができないからである。
「俺は神だ」と叫ばなければならない心理的土壌がある。それは深刻な劣等感を持っている人である。
深刻な劣等感が誇大な自己イメージとなって表れたのである。