信長、本能寺に死す――主君の凶報に接した豊臣秀吉は、中国地方から猛スピードで遠征軍を引き返す。仇討ちの行方は……。X(旧Twitter)で歴史上の偉人による架空のタイムラインなどを投稿し大反響を呼んだネット投稿者・スエヒロさん。NHKのSF時代劇『天下人のスマホ』等にも制作協力として携わった彼の新刊『戦国時代のタイムライン』(監修:本郷和人東京大教授)より、秀吉らのやり取りの一部を抜粋・編集してお届けする。
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豊臣秀吉:本能寺の変から11日後、私と光秀が戦った合戦が「山崎の戦い」。両軍は京都にある天王山でのふもとで激突しました。この戦いが天下の行方を決めたことから、後世では「勝敗や運命を決める重大な分かれ目」のことを「天王山」と呼ぶようにもなったわけです。
本能寺の変が発生した当時、私は毛利氏の備中高松城を水攻めにしていた最中でした。突然の信長様の死を知り、その事実は伏せたまま毛利氏と講和を結び、すぐさま姫路城に戻りました。
明智光秀:備中高松から姫路までの距離は約92km。その距離を秀吉殿は2万の軍勢を率いてわずか2日で走り抜けたのですよね。マジで驚きました…。
豊臣秀吉:私の第六感が、「ここが頑張りどころ!」と感じ取ったのです。そのあたりの時流を読む力が、私のスゴい所ですね。そんな私に高山右近、細川幽斎、筒井順慶らの有力武将も味方し、軍勢は4万ほどになりました。
明智光秀:そんな秀吉殿の動きに驚きつつ、私も1万6000の兵を揃えて山崎で対峙したのですよね。正直、中国地方の毛利氏が秀吉殿の背後を突く動きをしてくれると思っていたのですが、呼応してくれなかったのですよね…。
豊臣秀吉:光秀殿もアテが外れましたかな。そんな中、戦いが始まりましたがやはり戦力差は大きく、決着は短時間でつき、我々秀吉軍が勝利を収めたのですな。2~3倍の軍勢ですから当然といえば当然ですが。
明智光秀:面目なさすぎます…。チャンスに弱すぎるというか…。私はその後、一旦は拠点の勝竜寺城に逃げ込みましたが、そこから密かに脱出し、近江の居城である坂本城を目指したのですよね。その途中で落ち武者狩りに遭い、農民たちの手で討ち取られてしまいました。なんとも儚い最期でした…。