大河ドラマ「どうする家康」における、俳優・ムロツヨシさんの怪演で注目が集まる豊臣秀吉。非常に著名な武将だが、実はその出自ははっきりしない。「若いころはホームレスだった」「百姓をしていた」など諸説あるが、実際はどうだったのか。歴史学者の筆者が、史料をもとに読み解いていく。(歴史学者 濱田浩一郎)
豊臣秀吉は「元ホームレス」だった!?
出世前の“知られざる出自”とは
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康のライバルとも言うべき戦国武将・羽柴(豊臣)秀吉を、俳優のムロツヨシさんが演じている。同ドラマにおいて、秀吉はずるくて欲深く、そして不純な男として描かれている。
その怪演により、「『どうする家康』の秀吉は大河史上最もクズ」ではないかと勘繰るネットメディアの記事が話題を呼んだほどである(出典:マイナビニュース)。では実際の秀吉は、どのような出自の男なのだろうか。そして、なぜ出世することができたのか。
天正14(1586)年10月、徳川家康を臣従させた豊臣秀吉。秀吉はその前年には関白(天皇を補佐して政務を執る役職)に就任しているが、それは彼の出自を考えると異例中の異例のことであった。
秀吉が生まれたのは天文6(1537)年。父は弥右衛門という尾張国中村の百姓といわれている。『豊鑑』という江戸時代初期の寛永8(1631)年に成立した史料(著者は竹中重門、秀吉に仕えた竹中半兵衛の子)には、秀吉は「あやしの民であった」「あやしの民の子であったので、父母の名もわからない」との記述がある。
この「あやし」の読み解き方については諸説あるが、「怪し」という字を当てるのが妥当ではないかと考えられる。ご存じの通り、「怪し」には「異様」「不審」とか「えたいが知れない」などの意味合いがある。
そして秀吉は、小田原の北条氏直に宛てた書状の中で「若輩に孤と成て」と自らの前半生を明かしている。若い頃に孤独になったというのだ。これは、幼少の頃に、父を亡くしたことを言っているのだろう。
西国の大名・毛利氏の外交僧として有名な安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)は天正12(1584)年に、秀吉のことを次のように評している。「若い頃は、小者に過ぎず、乞食をしたこともある人物であった」と。恵瓊は外交僧として広い情報網を持っており、秀吉に関する情報も収集していたであろうし、その精度も確かだったと思われる。
少なくとも、当時、若い頃の秀吉に関してホームレスをしていたことがあるとのうわさが広まっていたことは分かる。薩摩の島津氏の家臣も秀吉のことを「誠に由来(由緒)なき人物」と嘲笑しているし、イエズス会(カトリック司祭修道会)の報告書にも「羽柴筑前殿(秀吉)は甚だ微賎に身を起こし」と記されている。
秀吉が低い身分から出世したこと、その出身が謎に包まれていることは、当時の共通認識だったのである。