大企業の社長や起業家、科学者など、いわゆる社会的に成功した方々にたくさん取材する機会を得てきました。その数は、3000人を超えています。誰もが知る有名な会社の社長も少なくなく、「こんな機会はない」と本来のインタビュー項目になかったこともよく聞かせてもらいました。インタビューで会話が少しこなれてきているところで、こんな質問を投げかけるのです。
「どうして、この会社に入られたのですか?」
数千人、数万人、中には数十万人の従業員を持つ会社の経営者、あるいは企業を渡り歩いて社長になった人となれば、仕事キャリアに成功した人、と言って過言ではないと思います。仕事選び、会社選びに成功した人、とも言えるでしょう。ところが、そんな人たちの「仕事選び、会社選び」は、なんともびっくりするものだったのです。
本記事は、『彼らが成功する前に大切にしていたこと 幸運を引き寄せる働き方』上阪 徹(ダイヤモンド社)より、抜粋してご紹介いたします。

鈴木敏夫さんは、アニメにまったく関心がなかった?Photo: Adobe Stock

世界的なプロデューサーになったのは「偶然」だった

 2024年3月、『君たちはどう生きるか』での2度目の米国アカデミー賞受賞が大きなニュースになった、スタジオジブリの宮﨑駿(はやお)監督。その懐刀、プロデューサーの鈴木敏夫さんへの取材もまた、忘れられないインタビューの一つです。

 通された応接間で大きなテーブル越しにインタビューをしていたのですが、鈴木さんの向こうにある大きなガラスの棚には、本やらDVDなどに混じって、何やらキラキラした金色に光るものがあったのです。

 終わってからおそるおそる、「もしや、あれは?」と聞くと、なんと『千と千尋の神隠し』のときのアカデミー賞のオスカー像だったのでした。しかも「あ、見ますか?」と棚から取り出し、「持ってみますか?」「写真に撮ったら」などなど、とんでもないものをあり得ないほど気さくに触らせてもらったのでした。このときの写真は家宝になっています。

 そんな鈴木さんのキャリアのスタートは徳間書店。学生時代、特にやりたいこともなく、将来はどうしようかと悩んだ挙げ句に浮かんだのが、文章でした。アルバイトなどで書いたことがあって、上手い下手は別にして書けた。それで出版社を受けたら、通ってしまったのだ、というのです。

 配属は週刊誌の「アサヒ芸能」。記者になりたいわけではなかったけれど、仕事は面白かった。芸能から政治、暴力団まで、あらゆるテーマの事件をリポートします。この仕事で、リアルにモノを捉えることの大切さを学ぶのです。

 アニメにはまったく関心はなかったのですが、29歳のとき、先輩の名物編集長に呼び出され、アニメ雑誌の創刊を手伝ってほしいと言われます。これもまさに、偶然、の出来事でした。

 なぜアニメ雑誌なのかと編集長に聞くと、息子が『宇宙戦艦ヤマト』のファンだったからだと言われます。鈴木さんは笑ってしまったそうです。仕事は公私混同でやるべきだと、このときに教わったと語っていました。

 スタッフはみんなアニメの素人でしたが、自分たちが面白そうなものを記事にしていくと、部数はどんどん伸びていきました。しかし、売れる雑誌はやりたいことがやりにくくなる。それで部数を落とそうと、まだ無名だった宮﨑駿さんを40ページの大特集で展開したそうです。

 宮﨑さんを教えてくれたのは、アニメファンの高校生。宮﨑さんの映画を観た鈴木さんはびっくりして、直接、会いに行ったそうです。すると、とにかくウマが合った。気がついたら延々と2人でしゃべっていた。一緒に仕事ができたら楽しいだろうな、と思ったそうです。ただ、当時はまだまだ無名。宮﨑さんが世に出る可能性なんて、まったく考えていなかった。

 映画の仕事をするようになったのは、自分たちで作品を作ったら取材も簡単だろう、という思いからでした。こうして生まれたのが、『風の谷のナウシカ』でした。

 映画づくりは面白かった。少ない努力で大きな成果を挙げられる仕事が、鈴木さんは好きなのだと語られていました。その実現を目指しているのだと。

 最初から映画を作ろうと思ったわけでもない。アニメに関わりたいと思ったわけでもない。偶然と小さな出会いを大切にしたことが、世界的な名作を次々に生み出すプロデューサーになるという驚くほどの結果を生んだのです。

※本記事は『彼らが成功する前に大切にしていたこと 幸運を引き寄せる働き方』上阪 徹(ダイヤモンド社)より、抜粋して構成したものです。