周囲の誰にも病気のことは知らせず、仕事も普段どおりにこなしながら約2カ月で14回の放射線治療を受けました。先生も「よう効いてる!」と言うほど、がんの数値は見る見るよくなり、治療はいったん終了。これで大丈夫、すべて順調でよかったとほっとしたものです。

 放射線治療中の4月1日には、紫綬褒章記念イベントを開きました。受章したのは前年秋でしたが、2人の結婚記念日4月9日に近い日を選んだのです。なんばグランド花月いっぱいのお客さまを前にすると、腰が痛くて本番15分前まで楽屋で横になっていたのがうそのように痛みを感じません。トークのときこそ座らせてもらいましたが、漫才もお芝居も笑顔でこなし、最後はみんなとダンスまで踊ったのです。楽屋での姿を見ていた吉本興業の前会長が「このNGKには笑いの神さんがいてる。やっぱり、ここにはな」としみじみおっしゃったのが忘れられません。私も感無量でした。

 しかし、穏やかな日々は長くは続きませんでした。2019年1月、骨髄穿刺で骨の中の形質細胞腫が10%以上あることがわかり、最も恐れていた多発性骨髄腫と診断されたのです。「これからは放射線では無理。化学療法になります」と天野先生。

 化学療法と言えば抗がん剤です。うわあ、嫌やなあと思いました。髪の毛が抜けてしまうことや副作用が恐ろしくて、どうしても決心がつきません。私、こう見えてすごく怖がりなんです。注射も痛いことも大嫌い。天野先生に大阪国際がんセンターを紹介してもらったにもかかわらず、二の足を踏み続け、あろうことか何カ月も治療をせずに過ごしてしまったのです。私の気持ちを尊重して、大助くんも娘のさゆみも何も言いませんでした。

立っていることもできず
パキーンと音をたてて骨折

 自分の闘病に後悔があるとすれば、唯一このときのことだけ。素直に化学療法を始めておけば、あんなに苦しむことはなかったからです。

 無治療の間、必死の願いもむなしく「がんは夢のように消えた」なんて奇跡は起きませんでした。日に日に腰が痛くなり、5月に入ると、歩くことも立ち続けることもほぼできない状態に。

 ある朝、鏡を見ると右目が飛び出していて、びっくり仰天。メガネもかけられないんです。さらに車椅子に乗せてもらおうとすると、左の鎖骨がパキーン。「今、パキーンと言うたよな?」「言うた」。さゆみにも聞こえるほどの大きな音を立てて鎖骨が折れたのです。