がん闘病の宮川花子、下半身も右手も動かぬ絶望から救った「奇跡の歌」とは?

「大ちゃん、花ちゃんを殺す気か!」──余命半年の宣告を受けた宮川花子が、多発性骨髄腫との闘いに身を投じる。やがて右目が飛び出してメガネをかけられず、鎖骨はパキーンと音をたてて骨折。ついには「余命1週間」という絶体絶命の窮地に陥ってしまう。本稿は、宮川大助・花子『なにわ介護男子』(主婦の友社)の一部を抜粋・編集したものです。

「余命半年」と宣告され
多発性骨髄腫との闘いが始まる

 こんにちは、宮川花子です。今年で闘病生活も6年になりました。2019年1月に多発性骨髄腫の診断を受けてから、その年の12月に病名を公表するまでの波乱万丈な日々は、前著『あわてず、あせらず、あきらめず』に詳しく書いています。あまりご存じない方もいらっしゃるでしょうから、ここでもかいつまんで振り返りましょう。そりゃもう、大変だったんですよ。

 初めて体調に異変を感じたのは、2018年3月2日に開かれた寛平マラソン前日のウォーキングイベントのとき。もともとフルマラソンを完走したこともある私ですから、12kmやそこらのウォーキングなんて余裕しゃくしゃくのはずが、なぜか途中から腰の激痛で一歩も進めない状態に。2人のマネージャーの肩を借りて、なんとかゴールする始末。その痛みはいったん治まったものの、2週間後にはまったく起き上がれなくなり、大助くんに説得されて家の近くの病院へ。そこで衝撃の告知を受けました。

「転移性骨腫瘍の疑いあり。背骨の2番と5番にがんがあり、内臓から背骨への転移であれば、余命半年」

 テンイセイコツシュヨウ?

 余命半年?

 頭の中は真っ白です。病名の漢字も浮かびません。隣に座る大助くんは、顔面蒼白。どうやって会計をすませて病院を出たのか、記憶にないほどショックを受けました。

 その後、奈良県立医科大学附属病院の血液内科へ。このとき出会ったのが、今もお世話になっている主治医の天野逸人先生です。私たちの顔を見たとたん、「うちの母がお世話になりました」と丁寧におじぎをされるもんだから、2人とも顔を見合わせて「何、言うてはるんやろ?」。

 じつは、大助くんがその理念に感動してボランティアに行っていた福祉施設「アガペの家」の息子さんだったのです。そういえば、私もおじゃましたことがありました。「天野のおばちゃんのボンかいな!」と喜ぶ大助くんの様子に、なんとも不思議なご縁を感じたものです。

内臓からの転移ではなかった
ひとまず余命は半年以上に

 先生のもとで生体検査を受けた結果、形質細胞腫という診断が下されました。当初疑われた内臓から背骨への転移ではなかったのです。

 ひとまず余命半年という切羽詰まった事態から逃れられたことに胸をなで下ろしました。骨髄に形質細胞腫が10%以上あれば多発性骨髄腫と診断されますが、この段階で腫瘍があったのは、第2腰椎と第5腰椎だけ。天野先生は「抗がん剤、放射線治療、重粒子治療といろいろ選択肢はあるけど、骨やったらまず、放射線の照射です」とおっしゃり、都島放射線科クリニックで放射線治療をすることに。