「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
倹約家と吝嗇家の違い
徳川家康は、倹約家として有名です。倹約とは、無駄づかいをしないで出費を抑えること。
やみくもにお金を惜しむ吝嗇家(りんしょくか=ケチ)とは異なり、無駄なことには出費を惜しみつつ、必要なことであれば惜しみなく出費する人です。
なぜ家康が倹約家となったのか。私は、次の2つの要因が大きいのではないかと思います。
家康が倹約家の理由…その1
1つは、家康の出身である三河(愛知東部)が、決して豊かではなかったこと。
織田信長や豊臣秀吉の出身地である尾張(愛知西部)は、戦国時代の終わりごろ(1598年)の石高が57万石だったのに対して、三河は29万石と半分くらいの規模でした。
しかも、家康が生まれたときの松平家(家康の実家)は、三河の一部しか支配しておらず、さらに石高が少なかったのです。
そんななか、東は今川家、西は織田家という強敵に挟まれていたのですから、少しでも対抗できる軍事力を備えるためには、無駄な出費を抑えて戦費を確保しなければなりませんでした。
家康が倹約家の理由…その2
もう1つは、家康が幼いころから織田家・今川家といった大勢力の人質になったことで、自己の欲望を抑制するようになったこと。
家康が人質として過ごした数え6歳から19歳という幼少期から思春期にかけては、人間のわがままや欲望が素直に表現されやすいです。
そんな時期に人質という環境で過ごしたのですから、自己のわがままや欲望を抑制することを強いられ、その後の人生に影響を及ぼしたのではないかと思うのです。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。