「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
長州藩 vs 薩摩藩
幕末、江戸幕府に対抗していた2つの藩がありました。それは長州藩(山口)と薩摩藩(鹿児島)です。もっとも、この2つの藩同士も、とても仲が悪かったのです。
幕末の政治の中心だった京都で、薩摩藩は会津藩とともに陰謀を企て、長州藩を京都から追放した八月十八日の政変(1863年)により、長州藩の恨みを買いました。
そして、長州藩が京都を攻めた禁門の変(1864年)で、京都の市街地に大火を招きつつ、薩摩・会津の両藩が激戦を繰り広げ、長州藩を返り討ちにしたのです。
憎んだ相手と手を結ぶ
こうした経緯があるため、とくに薩摩藩に対する長州藩の憎しみには、激しいものがありました。
一方で薩摩藩は、長州藩を京都から追い出したものの、江戸幕府が存続する限りは日本をリードできるわけではありません。それどころか、幕府によって薩摩藩が討たれる可能性があるとさえ考えました。
そのため、一度追い落とした長州藩と手を結ぶことを考えるようになったのです。
経済連携を仲介して
憎しみをやわらげる
もちろん、激しく薩摩藩を憎んでいる長州藩に、「京都では悪いことをしました。やっぱり一緒に手を結んで幕府に立ち向かいましょう」などと持ちかけたところで、すんなりと合意を得られるわけがありません。
そこで考えたのが、坂本龍馬が設立した「亀山社中」を活用した薩摩藩と長州藩の経済連携でした。
まず亀山社中は、薩摩藩経由で、長州藩に最新の武器を供与しました。当時、幕府の監視対象となっていた長州藩は、イギリスなど海外から軍艦や新式銃などの最新武器を自由に購入できなかったのです。
対立するリーダーを
仲介役が説得
そこに目をつけた坂本龍馬は、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷隆盛、両藩のリーダーを説得し、薩摩藩の名義でイギリスから軍艦や新式銃などを購入し、長州藩に供与することを提案したのです。
両藩のリーダーから了承を得て、後に初代総理大臣となる長州藩の伊藤博文(1841~1909年)などが長崎に潜入し、亀山社中のメンバーのサポートを得ながらイギリス・グラバー商会のトーマス・グラバーから最新兵器を購入します。
これにより長州藩は武力を拡充することができ、日本陸軍の創始者で兵器・軍制の近代化を目指した大村益次郎(1825~69年)の指導を受けながら、対幕府戦で勝利を収めることができたのです。
ギブ・アンド・テイクの提案
逆に、長州藩から薩摩藩に供与されたものもあります。それは戦時における軍兵の食糧米(兵糧米)です。薩摩藩は、京都に多くの兵士を抱える軍隊を置いており、そのための兵糧米を必要としたのです。
坂本龍馬から長州藩に、薩摩藩への兵糧米の供与を依頼したところ快く承諾し、500俵を準備しました(薩摩藩が受けとらず、亀山社中が受けとったともいわれています)。
感情的なわだかまりを解く
これは、米の生産量が少ない薩摩藩に対して、長州藩は米の生産が盛んなことに着目したものでした。
このように薩摩藩から長州藩には最新武器を、長州藩から薩摩藩には兵糧米を相互に供与することにより、徐々に感情的なわだかまりは解けていきました。
こうした経緯を踏まえて、ついに薩長同盟が成立し、時代は一気に明治維新へと向かっていくのです。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。