島崎藤村の胸像(小諸城/長野県小諸市丁)Photo:PIXTA

不倫や駆け落ちなど、禁断の愛と呼ばれる色恋沙汰は多くあるが、中でも最もタブーなのが近親相姦だろう。実際、姪と体の関係があった島崎藤村は大きな葛藤を抱え、苦しむこととなる。いっぽう姪のこま子は藤村に恋愛感情を強く持っており、結婚を夢見ていたという。近親相姦に対する男女の違いとは?本稿はヨコタ村上孝之『道ならぬ恋の系譜学 近代作家の性愛とタブー』(平凡社)の一部を抜粋・編集したものです。

次兄の娘と性的関係を結び
妊娠させてしまった島崎藤村

 島崎藤村とこま子の「道ならぬ恋」の経緯をざっと整理しておこう。

 詩集『若菜集』のロマンティックな作品で文壇にデビューした藤村だが、1899(明治32)年、小諸義塾の英語教師として赴任し、引き籠ってしまう。

 そして、次第に散文に関心を移し、『千曲川のスケッチ』を世に出した。そして、職業的作家になろうという意志を貫きとおし、悲愴な決意のもとに『破戒』(1906年)を自費出版する。作品は自然主義の傑作として絶賛され、藤村に作家としての地歩を築かせ名声をもたらした。

 続いて1908年には『春』を発表、また1910年には『家』を読売新聞に連載したが、その完結後、妻冬子が死去する。

『破戒』創作のためにほかの全てを犠牲にし、切り詰めた生活がたたったのである。執筆中にも三女縫子(編集部注/1905年没)が、出版後まもなく、次女孝子(編集部注/1906年没)、長女みどり(編集部注/1906年没)が栄養失調で相次いで死亡している。その後、男児2人をえるが、『破戒』出版後の明治43(1910)年にはとうとう母親である妻冬子が四女柳子を分娩ののち死んでしまうのである。