この事態に藤村は罪悪感に苛まれる。そしてとうとう日本脱出を決意し、翌年春にはフランス滞在を始めるのである。3年後の1916年夏には帰国し、こま子との関係を清算し、決着をつけるべく、その間の事情を綴った小説『新生』を執筆し始める。
しかし、一方で藤村は再会したこま子とまた関係を持ってしまう。これでは「新生」も何もあったものではない。こま子はこの後、事件の隠蔽のために台湾渡航を余儀なくさせられる。
このような経緯の、こま子との関係は藤村に激しい恥の意識を与えた。そして、事態を隠蔽しようと努力し続けた――それを『新生』という文学作品の中で公開してしまうまでは。「詮索ずきな近所のひとびとの眼から節子(こま子)を隠さねばならなかった」(平野謙『島崎藤村』81頁)。
だが、スキャンダルを糊塗するためのパリ行きを前にしてさえ、こま子の親にそれを伝えることもできないのである。
「節子の身の始末と自分の子どもの世話とをたのむ段取りをつけねばならなかった。そのためには、兄と嫂に身の不始末を詫びねばならなかったが、どうしても捨吉にはそれだけの勇気が出なかった」。
「節子の両親に身のゆきづまりを告白し得なかった捨吉は、末の女の児をひきとって養ってやろうという愛子[兄広助の長女のひさ]の厚意の前にも、外遊の真因を打ち明けることはできなかった」(平野謙『島崎藤村』同頁)。