正気じゃないけれど……奥深い文豪たちの生き様。42人の文豪が教えてくれる“究極の人間論”。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、意外と少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、読んだことがあるふりをしながらも、実は読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文学が一気に身近になる書『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。文豪42人のヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を一挙公開!
“リアルな人となり”が浮かび上がる
東京生まれ。本名・佐藤とし。日本女子大学校国文科中退。代表作は『木乃伊の口紅』。浅草の商家に生まれ、明治の女子教育のはしりであった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・附属高等学校)に入るものの、1年も経たずに退学。文芸界の重鎮であった幸田露伴の門下生となる。執筆活動と並行し、「花房露子」という芸名で俳優デビュー。雑誌『青鞜』に、一夜をともにした男女の姿を鮮烈に描いた『生血』が掲載され話題に。ろくに働かず文学修業ばかりしている夫・田村松魚に呆れ、不倫をしてスキャンダルに。海外生活が長く、夫と別れたあとは18年カナダで、晩年は中国で暮らした。昭和20(1945)年、上海で脳溢血により倒れ、60歳で死去。
田村俊子の晩年について、さまざまな人の証言や思い出を振り返ると、その“リアルな人となり”が浮かび上がってきます。
昭和14(1939)年前後のこと、当時中国に住んでいた俊子は、南京や北京を転々としていました。そんなあるとき、北京に留学していた若い日本人女性が、俊子と知り合います。
その留学生は、俊子が日本に帰国した際の歓迎パーティーで会い、大いに感銘を受けていたのです。そんなことから、2人の会話は盛り上がり、仲よくなりました。
あんた、どこに行ってたの。お金ある?
その留学生が北京に滞在したときのことです。俊子の滞在先である高級ホテルの部屋を訪ねました。
そしてドアをノックすると、「どうぞ」という俊子の声が聞こえ、心が弾んだといいます。
部屋に入ると、俊子はベッドに横たわっており、留学生の彼女を見てにっこりと笑い、「あんた、どこに行ってたの。お金ある? ホテル代が溜まってるから払ってくれない?」とせがんだそうなのです。
思うがままに生きた俊子
俊子は新聞社の特派員として中国にわたり、あちこちで歓迎されていたようです。
滞在は短期間の予定だったものの、各地での歓迎により長居してしまいホテル代がかさみ、困っていたのです。
そんなふうに思うがままに生きた俊子でしたが、昭和20(1945)年4月13日、戦争終結の年に上海で脳溢血により倒れ、60歳で客死します。
俊子の墓を建てた人びと
大正期の文壇を驚かせ、従来の女性像をひっくり返した俊子。自由奔放に生き、国境を越え劇的に生涯を終えた女性作家でした。
俊子は、私が住む鎌倉の東慶寺にある墓に眠っています。
俊子の墓は昭和26(1951)年4月の7回忌に岡田八千代、湯浅芳子、佐多稲子ら「田村俊子会」によって建てられたものです。
※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。