「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

農民の子から天下人へ
豊臣秀吉が日本を統一するまでの「逆転の戦略」
本能寺の変と織田家の重臣たちの動き
本能寺の変(1582年)で織田信長が死んだとき、明智光秀以外の織田家の重臣は、京都を中心とした畿内(近畿地方)から遠くにいました。
柴田勝家(1522?~1583年)は北陸の上杉家と、滝川一益(1525~1586年)は関東の北条家と、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は中国の毛利家と、それぞれに戦っていたのです。
おそらく明智光秀は自分の勢力を広げようと、このような重臣不在の隙を狙って、信長を襲ったのでしょう。
秀吉の素早い反応と「中国大返し」
しかし、明智光秀の思うようにはいきませんでした。中国地方にいた羽柴秀吉が、とても速いスピードで畿内に戻り、明智との山崎の戦い(1582年)で勝利したからです。
どのくらい速いスピードだったのかというと、本能寺の変が発生したのが1582年6月2日。そのわずか11日後、6月13日には山崎の戦いで秀吉が明智に勝利しています。
この間、秀吉は戦っていた毛利家と和睦する必要があり、備中高松城(岡山)から移動できたのは6月4日~6日ごろ(諸説あり)とされています。
高松城から山崎までの距離は約200kmありますが、これほどの長距離にもかかわらず、3万人を従えて7~9日間で移動したのです。
この中国地方からの驚異的な移動は、「中国大返し(備中大返し)」と呼ばれています。
秀吉の「中国大返し」を成功させた要因
なぜ秀吉は、中国大返しをやり遂げることができたのでしょうか。諸説あるところですが、次の2つが有力視されています。それは秀吉の「情報収集力」と「段取り力」の高さです。
1. 情報収集力の高さ
秀吉が本能寺の変を知ったのは、その翌日である6月3日夜から4日朝といわれます。これだけ早く情報収集できた理由も諸説あります。
秀吉の生涯を描いた『太閤記』では、明智光秀が毛利家に向けて送った密使を捕まえたことにより、秀吉が本能寺の変を知ったとしていますが、多くの疑問が持たれています。
私自身は、信長をよく知る秀吉が、信長に対する反乱はいつでも起こり得ると考え、京都の情勢が届くようにシステム化していたのではないかと考えています。一説には茶人の長谷川宗仁(1539~1606年)の使者から情報を得たともいわれます。
いずれにせよ、早期に情報収集できた秀吉は、ほかの重臣たちよりも早く移動することができたのです。
2. 綿密な段取り力
3万人もの兵が武具や武器とともに大移動するとなると、軍需品や食料の補給と兵站(ロジスティクス)を担う後方支援が必要となります。
最近の研究では、織田信長が中国地方に向かうための中継拠点「御座所(ござしょ)」を設けていたのですが、これを秀吉は中国大返しで活用したのではないかといわれています。
御座所は食料を大量に備蓄し、大人数が宿泊できる拠点であったと考えられ、秀吉は畿内に向かう際にこれを活用した可能性があります。
とはいえ、事前の綿密な段取りがないと、3万人もの大所帯では有効に御座所を活用できないはず。実際、武具や武器などの物資について、陸路とは別に海路で運んだという説もあります。
秀吉の計画的な行動が勝利を引き寄せた
諸説あるものの、さまざまな段取りをしたことは間違いありません。
秀吉の情報収集力の高さと、綿密な段取り力があったからこそ、「中国大返し」という驚異的な機動力を発揮し、明智光秀を討つことができたのです。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。