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※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

名参謀にして名リーダー、保科正之が江戸の町の大半が焦土と化したときに下した「一石二鳥の機転の効いた妙案」とは?Photo: Adobe Stock

日本史上最大級の火災

保科正之(1611~72年)は、江戸時代前期の大名。江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の子にして、徳川家康の孫にあたる。母親が秀忠の正室(本妻)でなかったこともあり、幼年から信濃(長野)の保科家に養子に出される。成長後は保科家を継ぎ、兄である3代将軍・徳川家光を支える。家光が亡くなった後も、その子である4代将軍・徳川家綱の補佐役として、幕府政治の中心を担う。江戸の大半を焼いた明暦の大火(1657年)など、幕府の危機にも再建に尽力した。藩主としても信濃から山形、会津(福島)と領地が移り、幕末まで続く会津松平家の初代となる。会津藩では、現代でいう産業振興や社会福祉、教育政策などにとり組んだ江戸時代屈指の名君とされる。

江戸の町の大半が焦土と化し、死者10万人以上(死者数は諸説あり)ともいわれる「明暦の大火」は、関東大震災や東京大空襲を除けば、日本史上最大級の火災といえます。

同じ振り袖を着た娘が3人も立て続けに病死し、その厄払いのために振り袖を焼こうとしたら、火のついた振り袖が舞い上がって寺に燃え移ったことから「振り袖火事」とも呼ばれますが、これは世界的にも大きな火事で、ローマ大火・ロンドン大火とともに「世界三大大火」に数えられます。

江戸城の天守も焼け落ちたこの大火災において、保科正之は江戸幕府の中枢を担う立場として対処しました。そのとき、被害の拡大を防ぐとともに、庶民に対する配慮を感じさせる逸話がいくつか残っています。

一石二鳥の機転の効いた妙案

とくに有名なのは、大火により幕府の米蔵が延焼しそうになったときのこと。庶民が消火に協力すれば、米蔵にある米をもち出してもよいという機転の利いた施策です。大火で食料も財産も失った庶民には、とてもありがたい話ですし、火事の延焼も抑えることができるという、まさに一石二鳥の妙案でした。

また、大火の後には、江戸の町屋の再建のために16万両(1両10万円とすると160億円)もの莫大な投資を決めています。

再建にそんな大金を投資すると、幕府が傾いてしまうという声もありましたが、保科正之は「幕府の蓄えというのは、こういうときに下の者に与えて安心させるためにあるのだ」と答えています。現代の災害対策や福祉政策と同じような考えをもっていたのです。

支配層の都合より
全体最適を優先

一方で保科は、焼失した江戸城の天守再建には反対しました。だいぶ前に戦国時代が終わりを告げ、籠城のための天守はすでに不要になっていましたし、天守再建のために費やす資金や労働力があるならば、江戸全体の再建に使ったほうがよいという考えからでした。

結局、江戸の庶民が食料や住居で困ることがないように配慮しつつ、支配層の象徴である天守の再建は踏みとどまりました。現在も皇居外苑を訪れると、天守が建っていた石垣だけを見ることができます。

あのとき、もし支配層である幕府の都合を優先して天守を再建し、庶民の負担を増やしていたならば、江戸幕府は265年もの長きにわたって続いていなかったかもしれません。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。