「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

農民の子から天下人へ
豊臣秀吉が日本を統一するまでの「逆転の戦略」
秀吉の「スピード戦略」は
賤ヶ岳の戦いでも発揮された
私は、秀吉の中国大返しが成功した要因は、情報収集力と段取り力によるところが大きいと考えますが、その後も秀吉は再びスピード感のある大移動を実現しています。
それは、山崎の戦いの翌年に行われた、柴田勝家との賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(1583年)でのことです。
にらみ合いの中で
秀吉が取った奇策
この戦いでは、近江(滋賀)で勝家と秀吉の両軍がにらみ合いを続けていましたが、秀吉は勝家に味方していた織田信孝(信長の三男・1558~1583年)を討つため、一時的に美濃大垣(岐阜)に移動したのです。
このとき勝家軍の一部が、にらみ合いの状況から秀吉不在の秀吉軍に襲いかかりました。通常、にらみ合いから一方が動き出すのは、動いたほうの陣形が崩れるため危険なのですが、一時的に美濃大垣に移動した秀吉は、しばらく戻ってこないと勝家軍は考えたのでしょう。
これが1583年4月19日のことでした。
「美濃大返し」の開始
翌4月20日には、秀吉が移動先の美濃大垣で、残った秀吉軍に勝家軍の一部が襲いかかったという情報をキャッチします。
襲われて討ち死にした武将を哀悼しつつも、ここで戻れば勝家軍に勝てると秀吉は確信したといわれます。
そこから、美濃大垣から戦地の近江まで戻る「美濃大返し」が始まりました。
「美濃大返し」の
驚異的なスピード
この大返しでは、1万5000人の軍勢が52kmの距離をおよそ5時間で移動したといわれます(諸説あり)。
道中の村々には秀吉軍から使者を送り、食料と松明(たいまつ)を用意するように命じました。こうした段取りのよさで、秀吉軍は5時間で近江の戦場に戻ることができたのです。
秀吉の奇襲で柴田勝家は敗北
想定以上の速さで戻ってきたことに、勝家軍は驚き、退却を始めました。しかし、陣形が崩れていたこともあり、秀吉軍の攻撃の前にあっけなく敗れ去りました。
柴田勝家は居城の北ノ庄城(福井市)まで戻りますが、秀吉軍に取り囲まれ、自刃を余儀なくされました。
美濃大返しにおける
秀吉の情報収集力と段取り力
この戦いにより、秀吉は織田信長の後継者としての地位を確かなものにしました。
中国大返しに続く「美濃大返し」でも、秀吉は早期に勝家軍の侵攻を把握した情報収集力と、近江までの移動を円滑に行った段取り力を発揮しました。中国大返しでの成功を活かしたともいえます。
「もしも」中国大返しと美濃大返しがなかったら?
歴史にご法度の「もしも」の話ですが、中国大返しと美濃大返しがなかったら、その後の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
もし中国大返しがなかったら?
もし中国大返しがなければ、明智光秀は織田家重臣不在の間隙を縫って畿内周辺を支配し、織田家の重臣たちとの戦いに備えたでしょう。
その後、明智光秀が天下統一できたかどうかは未知数ですが、少なくとも戦乱が長引き、混乱の時代が続いた可能性は高いです。
もし美濃大返しがなかったら?
一方、美濃大返しがなければ、勝家軍は秀吉不在の秀吉軍を壊滅させ、秀吉が戻ってきたとしても逆転勝利はできなかったかもしれません。
そうなると、柴田勝家が織田信長の後継者としての地位を確立し、秀吉による天下統一は実現しなかった可能性が高いでしょう。
いずれも、スピード感ある行動が、最終的に豊臣秀吉の天下統一につながっていったのです。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。