
国民的エンターテイナーとして人気の堺正章。その父・堺駿二もまた、250本もの映画に出演した喜劇役者だった。主役の引き立て役をまっとうしつつ、それでいて自身の存在感をしっかり残して消えていく名バイプレイヤーぶりが買われ、東映、大映、松竹からひっぱりだこ。役者は特定の配給会社の専属だった時代にあって、異色の存在だった。とりわけその「八方美人」ぶりの真骨頂は、2大スター・市川右太衛門と片岡千恵蔵が火花を散らしていた、東映での立ち回り。どちらの主演映画にも共演できた唯一の存在が堺駿二だったのだ。本稿は、堺 正章『最高の二番手』(飛鳥新社)の一部を抜粋・編集したものです。
撮影所内で勢力を二分する
大物役者同士が鉢合わせる“大事件”
「最高の二番手」が、いちばん長くその場にいられる――僕がそんな思いを強くしたのは、父の背中から受けた教訓に基づくものだった。
僕の父・堺駿二は、250本もの映画に出演した喜劇役者だった。京都・太秦の撮影所(編集部注/東映)の人は「あんたのお父ちゃんはすごい人なんやで」とよく言ってくれたけれど、小さい頃はその意味が今ひとつわからなかった。父はぐいぐいと前に出て行くような人ではなかったからだ。そのぶん、息子である僕の心の中には、ちょっとした歯がゆさもあった。
昔、太秦の撮影所には役者としての2大巨頭がいて、勢力を二分していた。ひとりは「北大路の御大」と呼ばれた市川右太衛門先生、もうひとりは「山の御大」と呼ばれた片岡千恵蔵先生だ。東映内部はその両者が率いる二派にがっちり分かれていて、撮影所内ではその御大ふたりが絶対に鉢合わせしないよう、みんなが細心の注意を払っていた。
それがどうしたことか、たった1度だけ、結髪部屋(カツラ合わせの場所)でふたりが同時に遭遇するという大事件があった。
それぞれお付きの人たちを従えたふたりは、お互いに挨拶をしなかったそうだ。これ以上はないというほど、居合わせた全員が体を硬直させ、空気がぴーんと張り詰める中、いつも冷静な床山さん(役者の髷などを結う係の人)が、緊張のあまり手が震えでもしたのか、思わずヘラをガチャンと床に落としてしまった。図らずもその音が、緊迫する空気の結界を解いたという……。
父・堺駿二がどちらの御大にも
愛されたのはなぜか
想像するだけでも怖くて身がすくむ思いだ。あの時代の映画界は、もし主役から嫌われたら永遠に締め出されるというほど恐ろしい世界だった。今では考えられないことだが、驚くほど荒々しい空気が支配していたのだ。御大ふたりの間には、ベルリンの壁ほど高い障壁が立ちはだかっていた。
そんな派閥間の確執があったにもかかわらず、平和主義者の父だけは、どちらの御大とも仲がよく、両方とお付き合いをすることを特別に許されていた。
僕としては、「ただの八方美人じゃねえか」と父のことを斜めから見ていたこともある。しかし、「御大ふたりから可愛がられるなんて、他に誰もいない。駿ちゃんだけや。駿ちゃんは別格のすごい人やで」と撮影所でみんなから言われると、少し鼻が高かった。