まともな支援をする覚悟があるのなら、部活動の位置づけを明確にすればよいだろう。

 そのためには、部活専門の指導者を揃えたり、部活を指導する教員の授業時数を削ったり、そこをカバーするための教員を増員したりしなくてはならないだろう。しかし、そんな予算はかけたくない。それならいっそのこと部活動を学校から切り離して、新たな市場を開拓しよう。ただそれだけのことだ。

 だから、これまでの政府の投資責任の放棄を問わずして、問題の本質的な解決はあり得ない。ビジネスとして成り立たせようとする民間クラブがひしめく市場に委ねたところで、自己責任論に基づく格差の拡大は免れないだろう。

部活動は「権利」か「サービス」か
金銭問題で機会を失う子どもが発生

 元中学校教員として、部活動が教職員の負担になってきたことは十分理解できる。しかし、子どもや家庭、自治体の立場からしてみればどうなのだろう。「お金が払えないから」との理由で、好きなスポーツや芸術に取り組めない子どもが出てこないだろうか。

 そもそも、政府が「部活動の地域の受け皿」と想定するスポーツクラブなどが存在しない中山間地域などでは、誰が部活動を担っていくのか?

 吹奏楽部などを考えれば、地域に音楽指導者がいないところはどうするのか。指導者を配置する予算が取れない貧しい自治体はどうするのか。

 潤沢な予算をつけられる大きな自治体もあれば、財政難で家庭への減免措置を約束できない小さな自治体もあるだろう。結局は過疎地からスポーツクラブのある大きな自治体に子育て世代が流出し、地方都市への人口集中と、私が住む高知県土佐町のような中山間地域の切り捨てにつながるのではないだろうか。

 政府は「部活動を学校でやる必要があるかどうか?」という議論の枠組みの中で、私たちに活発な議論を奨励する。しかし本来問うべきは、「スポーツや芸術の機会は子どもたちの『権利』か、それともお金で買う『サービス』なのか」であり、もしそれが権利であるならば、「政府は子どもたちの権利を保障する気があるかどうか」ではないだろうか。