
学校教育は、教員と子どもがいてはじめて成り立つ。だが昨今の「学校における働き方改革」は、教員の長時間労働の是正ばかりにスポットが当てられ、子どもの学ぶ権利が置き去りにされていないだろうか。※本稿は、鈴木大裕『崩壊する日本の公教育』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
「学習権の保障」と
「教師の幸せ」の両立を
「学校における働き方改革」の本質はどこにあるのだろうか。業務の効率化と生産性の向上、部活動の地域移行、タイムカードの導入による勤務実態の把握、給特法の改正、留守番電話による勤務時間後対応など、さまざまな対策が議論されてきた。
しかし、政府が進める「学校における働き方改革」は、どうしても教職員の勤務時間の削減に意識が囚われ過ぎているように感じる。「減らす」というベクトルが強過ぎて、政府が投資をして「増やす」というベクトルとのバランスがあまりにも悪いのだ。
また、どうも私には議論が表面的に見えてならない。もし本当に「学校における働き方改革」に取り組むなら、「学校の役割とは何か」「教師の仕事とは何か」という根源的な問いと向き合わずに実現できるわけがない。そこがすっぽり抜け落ちているから、小手先だけの改革に終わってしまうのだ。
そもそも何のための「働き方改革」なのだろうか。教員の長時間労働を是正することなのか、残業に見合う手当を支給することなのか、仕事量を削減することなのか…。私に言わせれば、これらは全て手段に過ぎない。せっかく「働き方改革」を行うのなら、私はそれが、「子どもの学習権の保障」と「教師としての幸せ」のためであって欲しいと思う。
そして、この2つは決して矛盾するものではない。「子どもの学習権の保障」は、広い意味では子どもの人としての成長を担保するための条件だ。だから前者がなければ後者もない。
少子化の今こそ
少人数学級実現のチャンス
教員にとっての労働環境は、子どもにとっての学習環境だ。教員が心身に支障をきたすほど過酷な教育現場では、教員が生徒と十分にかかわることができなかったり、教材研究の時間が十分に取れなかったりと、その専門性を発揮できるはずもなく、それは子どもの学習権の侵害につながる。
これらの課題には、教員の数を増やすことで対応できる。少子化だから教員の数を減らすのではなく、少子化の今こそ少人数学級実現のチャンスと見るべきなのではないだろうか。