ロバート・エドワード・ターナー3世(1938~)は、父が自殺をした後という不幸な境遇のもとで仕事を始めた。ところが精神的な面で驚くべき立ち直りを見せ、父の事業の発展に取り組み、ついには世界最大のエンターテイメントとメディアの企業、AOLタイムワーナー社を出現させている。
1963年に、ターナー・アドバタイジング社の社長兼COOとなり、企業買収と放送局開局の路線に踏み出した。その会社を発展させていく過程で、UHF局1局、プロスポーツのチーム(アトランタ・ホークスやアトランタ・ブレーブスもこの中に含まれる)、ヘッドラインニュース、TNT、スポーツサウス、カートゥーンネットワーク、ターナークラシックムービー、ニューラインシネマをはじめ多くの企業を統治下に入れている。
ターナーを有名にした最大の業績はおそらく、1980年6月の24時間ニュース番組局ケーブルニュースネットワーク(CNN)の創設と、2000年から2001年にかけてのAOLタイムワーナー社設立に果たした役割だろう。
生い立ち
ロバート・エドワード・ターナー3世は1938年、オハイオ州シンシナティで生まれた。その多彩な学生生活で有名なのは、学業成績の優秀さよりも奇抜で奔放な行動のほうだ。テネシー州チャタヌーガにある有名男子校マカリーに在学中は手に負えない生徒で、剥製と、枕カバーでリスを捕獲することに異常なほどの興味を示した。マカリーの学校当局がとった規則違反者の処罰法は、罰点を与えることだった。罰点1点につき4分の1マイル(約400メートル)の距離を歩かなければならない。ターナーが受け取った罰点は入学した年に1000(距離にして400キロ)を超えた。これはどんな生徒にしても与えられた時間内に歩ける距離ではなかった。学校当局はターナーのためだけに、処罰の方法を改めて考えなければならなかった。
ブラウン大学時代にもターナーの反権威的な姿勢に変化はなかった。あるとき寮の自室に女性といるところを見つかり退寮させられたが、そのときにはすでに大学のヨットクラブの活動で名前を上げていた。ヨットへの情熱は衰えることがなく、のちに、自分の所有するヨット「カレイジャス」(Courageous:勇敢)に乗り1977年のアメリカズカップで優勝している。
大学を卒業すると、家に戻り、父の経営する広告看板業の仕事を始めた。父はジョージア州メーコンにある自分の会社の支社でターナーをマネジャーにした。結婚して、毎週6日と半日、毎日15時間という厳しい仕事に真剣に取り組んだ。父と同様、生まれながらのセールスパーソンで、急速に事業を拡大していった。
しばしば衝突していた父との関係は、1963年3月、24歳のときに衝撃的な結末で終わる。仕事の精神的重圧に耐えきれず、父が38口径の拳銃で自らの頭を撃ち抜いたからだ。こうした過酷な環境の中で、ターナーはターナーアドバタイジング社の社長兼COOになる。