寒くて辺境の国だったロシアが「大帝国」になれた超意外な理由
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

寒くて辺境の国だったロシアが「大帝国」になれた超意外な理由Photo: Adobe Stock

ロシアの成り立ちを学ぶ

 ロシアは13世紀にモンゴルの遠征を受け、中世ロシア国家(キエフ・ルーシ)が実質的に解体しますが、15世紀にモンゴルより完全な独立を達成するとともに、分断されたロシア諸侯領の統一も成し遂げます。その中心となったのが、モスクワという都市でした。

 ここを拠点とするモスクワ公国は、もとはやはりモンゴル(ジョチ・ウルス)の支配下にありましたが、14世紀にジョチ・ウルスの徴税請負を担うことになったことで、徐々に勢力を蓄えたのです。モスクワはイヴァン3世(在位1462~1505)の治世にジョチ・ウルスからの独立を果たし、大国としての礎を築きます。このロシア国家は、「モスクワ大公国」ないし「モスコヴィア」と呼びます。

 しかし、モスコヴィアは16世紀末期よりツァーリの座をめぐる後継問題がポーランドやスウェーデンといった近隣諸国の干渉を招き、「動乱時代」と呼ばれる混乱期を迎えます。これを収拾したのがミハイル・ロマノフというツァーリで、彼が即位(1613)して以降のロシア国家の家系をロマノフ朝といいます。

2人の名君がロシアを変えた

 ロマノフ朝には17世紀から18世紀にかけて、傑出した君主が2人登場します。

 1人はピョートル1世(大帝、在位1682~1725)です。

 彼は、西欧からすると立ち遅れていたロシア国家の発展を推進し、自ら西欧諸国を視察するなどして西欧化を進めます。そしてバルト海への進出を目論み、大国スウェーデンと戦端を開きます。これは大北方戦争と呼ばれ(1700~1721)、最終的にこれに勝利を収め、バルト海への玄関口を押さえました。また、この戦争中に建設が始まり(1703)、1713年に遷都したのがサンクト・ペテルブルクです。

 ピョートル1世の治世に、ロシア国家は列強の一員として認知されるようになります。また、西欧化の一環として、1721年にピョートルはラテン語の皇帝号・インペラトルを採用し、これをもって「ロシア帝国」が成立したと見なされます。

 もう1人は、エカチェリーナ2世(在位1762~1796)です。

 実は、彼女はピョートル3世の妃としてロシア帝室に迎えられた身で、ドイツの領邦貴族に出自を持ちます。エカチェリーナ2世は夫のピョートル3世をクーデタで排除し、自ら皇帝に即位します。ドイツ出身の彼女は、ヨーロッパで流行していた啓蒙思想をロシアに紹介し、多くの思想家が宮廷に招かれます。外征もまた積極的であり、オスマン帝国との戦争に勝利してクリミア半島を併合し南下を進めます(1783)。下図(図66)を見てください。

寒くて辺境の国だったロシアが「大帝国」になれた超意外な理由出典:『地図で学ぶ 世界史「再入門」』

 さらに当時、国王選挙をめぐり混乱の渦中にあった大国ポーランドを、プロイセン、オーストリアとともに分割します。このポーランド分割は三度に及び(1772・1793・1795)、これによりポーランド国家はいったん消滅することになります。

 ピョートル1世、エカチェリーナ2世の卓越した主導によって、列強となったロシアでしたが、一方で中世以来の農奴制はさらに強化され、農奴は地主や領主への隷属から逃れられなくなっていました。ともあれ、18世紀が終わるまでに、プロイセン、オーストリア、ロシアといった東欧の新興国が列強の一角を占め、これにイギリス・フランスを加えた五大国が、ヨーロッパの勢力均衡を担うようになるのです。

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の一部抜粋・編集を行ったものです)