イギリスとフランスが植民地争いを続けた「残酷な理由」とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。
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列強諸国は、なぜ植民地を求めるのか?
イギリスやフランス、オランダでは、重商主義を進める過程で、商業や商人を保護します。ここで問題なのは「商人には投資がつきもの」という点です。
仮に自国の商人が他国の事業に投資すると、それで商人が儲かったとしても、一番の恩恵を受けるのは他国であり、利益が自国にあまり還元されません。したがって、各国は自国商人にとって有望な投資先を、率先して用意するのです。ここで問題です。
“当時、商人にとって有望な投資先とは何か?”
大航海時代(大交易時代)の幕開けにより、スペインやポルトガルが海外植民地をいち早く拡げました。この時の植民地は香辛料の産地や銀の産出地といった、「商品の生産地」としての性質が重視されます。
しかし、重商主義時代に重視されるのは「市場(しじょう)」、すなわち自国の商品・製品を売りさばく場が必要とされます。よって、重商主義が興隆する17世紀より、植民地の性質は「商品の生産地から市場へ」と変化するのです。というわけで、今回の正解は「海外市場(植民地)」です。
「市場」をめぐって、争いが激化する
なかでもイギリスとフランスは、17世紀より海外市場をめぐって激しく争いました。イギリスとフランスの両国は、北アメリカとインドにそれぞれ拠点を設置して進出しており、双方の市場独占をめぐる対立が深刻になったのです。
この両国の植民地抗争は、ヨーロッパでの大戦争とも連動しており、イギリスとフランスは百年戦争を戦います。「百年戦争」といえば、中世に英仏両国が争ったものが有名ですが(1337~1453)、今回はそれに続く二度目の戦争ということで、「第2次英仏百年戦争」とも呼ばれます。
第2次英仏百年戦争の契機となったのが、大同盟戦争(ファルツ継承戦争/1688~1697)でした。この時期はフランスがルイ14世の治世(在位1643~1715)のもとで常備軍を増強し、ヨーロッパ最強水準の圧倒的な軍事大国と化していました。
その軍事力を背景に、ルイ14世は活発な侵略戦争を繰り返し、これを阻止しようと他の列強諸国が同盟する、という構図が形成されます。この大同盟戦争では、北米でも英仏両国が衝突しており、こちらはウィリアム王戦争と呼ばれます。大同盟戦争・ウィリアム王戦争ともに決着はつきませんでしたが、この戦争を機に、英仏両国の長い因縁が始まるのです。
(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の一部抜粋・編集を行ったものです)