禁じられた洋書を開かせた将軍――江戸に“科学革命”をもたらした男の正体
仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつマネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

江戸時代に革新をもたらした…将軍・徳川吉宗の知られざる“西洋オタクぶり”Photo: Adobe Stock
徳川吉宗(1684~1751年)は、江戸幕府の8代将軍。徳川御三家(尾張・常陸・紀伊)の一角である紀伊(和歌山)徳川家の四男だが、兄たちが亡くなったことで紀伊徳川家を承継。藩政改革を進め、名君と評価された。歴代最年少の7代将軍・徳川家継(1709~16年)が病により8歳で亡くなり、徳川本家の継承者がいなかったため、8代将軍を承継。幕府は財政難となっていたが、享保の改革で、質素倹約や新田開発、税制改革などを進め財政再建を図った。また、有能な人材であれば下級武士でも抜てきする人事制度を進め、政策の推進力を高めた。さらに身分を問わず民衆から改革の意見を募る「目安箱」を設け、庶民のための総合病院「小石川養生所」を開設するなど、先進的な施策にとり組んだ。好奇心が旺盛で、禁止されていた洋書(キリスト教関係を除く)を解禁。これが後の蘭学の流行につながり、日本の近代化に果たした役割も大きい。

海外交流の制限と吉宗の例外措置

 江戸時代はキリスト教が広がるのを防ぐため、海外との交流は限定的でした。西洋諸国ではオランダだけ、それも長崎・出島での交易・交流に限定されていました。

 それに西洋の書籍の輸入も、原則的に認められていませんでした。

科学技術への関心――西洋の知を取り入れる

 しかし、8代将軍となった徳川吉宗は、西洋の学問のなかでも、とくに医学や天文学といった科学技術に関わる分野が日本より先行していることを認め、キリスト教に関わるものを除いて西洋の書籍の輸入を認めたのです。

 そして、幕臣などに命じて、オランダ語の習得や書籍の翻訳などに着手します。徳川吉宗自身も、西洋に学びました。

馬・象・気象――広がる興味と実践

 馬乗りが得意だった吉宗は、オランダから西洋の馬を輸入し、その馬術などもオランダ人から学びます。馬だけでなく、ベトナムから象を輸入するなど、吉宗の動物への興味は尽きませんでした。

 また、天文学や気象学にも強い興味をもっていました。天体観測を行っていたほか、江戸城中庭に桶を置いて、継続的に雨量を調査したりもしました。1742年には通常より雨量が多いことに気づき、大洪水を予知し、災害予防を指示したとも伝えられています。

蘭学の誕生と近代日本への道

 このように吉宗は、自分の関心度が高かった領域を中心に、西洋の学問に学んでいました。

 吉宗により日本に開かれた西洋の学問は、江戸時代にオランダ語の書物によって西洋の学術を研究しようとした「蘭学」として、医学や科学に通じた人材を育てました。

 これが明治以降の日本の近代化に通じたのです。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。