幸せな結婚も病への差別と偏見から破綻をきたす
正気じゃないけれど……奥深い文豪たちの生き様。42人の文豪が教えてくれる“究極の人間論”。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、意外と少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、読んだことがあるふりをしながらも、実は読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文学が一気に身近になる書『ビジネスエリートのための 教養としての文豪(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。文豪42人のヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を一挙公開!

没後77年にしてようやく本名を公開した作家とは?イラスト:塩井浩平

没後77年にしてようやく本名を公開

北條民雄(ほうじょう・たみお 1914~1937年)

ソウル生まれ。本名・七條晃司。代表作は『いのちの初夜』。高等小学校を卒業後、上京し、法政中学夜間部で勉強するなどプロレタリア文学を志すが、19歳でハンセン病を発症。東京・東村山のハンセン病療養所「全生病院」(現・国立療養所多磨全生園)への入院を余儀なくされる。病院から川端康成に作品を見てほしいと手紙を書き、作品を執筆。自身の経験をもとに書いた代表作『いのちの初夜』は、小林秀雄が「文学そのもの」と評するなど文壇から高い評価を得て、第2回文學界賞を受賞、芥川賞候補にもなった。作品集『いのちの初夜』がベストセラーになったものの、腸結核のため、その短い一生を23歳で終えた。

■明かされた本名と出身地

北條民雄の本名「七條晃司」と出身地「徳島県阿南市」が公表されたのは、平成26(2014)年になってからのことです。

徳島に住む北條の親族に、関係者が2年余りにわたって本名を公表するように働きかけ、北條の生誕100年にあたる平成26(2014)年、親族の了承を得て、出身地の徳島県阿南市の文化協会が発行した本のなかで、初めて本名を公表したのです。

■没後77年、ようやく光が当たる

そのとき、すでに没後77年が経っていました。

これを機に、北條の直筆原稿や川端康成との書簡などを展示した「北條民雄特別展」が、徳島の文学書道館で開かれました。

■改題に至るやりとりも公開

この特別展では、北條が書き上げた『最初の一夜』の感想を川端に求めたり、のちに『最初の一夜』を『いのちの初夜』に改題することになる川端が、題名についてアドバイスしたりする直筆の書簡などを、北條の本名の部分も隠さずに展示されました。

私も徳島の文学書道館に行って図録を手に入れたのですが、そこには書棚を背景に座る眼鏡をかけた北條の肖像画が掲載されていました。

その薄い冊子を手にしたとき、それまでにない北條の短い人生に思いを馳せ、得も言われぬ感情が込み上げてきたことを覚えています。

■ソウルで生まれ、幼くして母を亡くす

長らく明らかになってこなかった北條の人生について、振り返りましょう。

北條の父親は陸軍の経理部に勤め、当時の勤務地であるソウルで、大正3(1914)年に生まれました。しかし、翌年に母が病死し、祖父母が育てるため、母の出身地の徳島・阿南に移ります。

■文学への目覚めと『黒潮』の創刊

一度は上京しますが、兄が亡くなったこともあり、ふたたび徳島に戻り、家事を手伝いながら、友人らとプロレタリア文学の同人誌『黒潮』を創刊。

警察に目をつけられ、原稿を押収されたこともありました。

■18歳で結婚、しかし運命は暗転

育ての親である北條の祖父母は身を案じ、昭和7(1932)年、北條が18歳のときに親戚の娘と結婚させました。

幸せな結婚生活を送るはずでしたが、わずか翌年、それはハンセン病によって一気に破綻してしまいます。

※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。