「騒音おばさん」は“笑われていい存在”だったのか?「晒し動画」を“娯楽化”するメディアへの違和感
ショート動画は個人が晒し放題
晒された人たちのその後の人生は?
マナーの悪い行いや犯罪・準犯罪を撮影した動画は視聴者に、憤りと同じように感じている視聴者への共感や、その動画が逮捕の証拠となることへの期待、そして動画がアップされたことによって非撮影者への社会的制裁がすでにいくばくか達せられている(悪行が白日のもと・無数の視聴者の目に晒されたという事実)と感じるカタルシスをもたらす。
また、日本には「お天道様が見ている」的な慣用句があるが、現代ではお天道様の監視業務の何割かをスマホカメラが担っているといえるから、迷惑行為や犯罪へのちょっとした抑止力にもなり得ているかもしれない。
それらの動画では、撮影されている人の顔が鮮明に映るなどしていて特定が容易で、またその人にネット公開の承諾を十中八九取っていないであろうものが非常に多い。
YouTubeの長尺動画にはぼかしを入れたりとそのあたりへの配慮があるものは散見されるが、ショート動画だとそこは無礼講とばかりに個人が晒し放題となっている。
これには昨今の動画投稿者急増ブームも関連していて、大手クリエイターが社会的責任の自覚の元に気をつけるそうした領域を、スマホ片手に撮影・投稿する素人や小規模クリエイターは、気にせずどんどんやっちゃうのである。
晒しテイストの短い動画は旧Twitterの頃からよくあったが、今は各SNSが多くの数の動画がアップロードされる体制を盤石に整えたし、YouTubeではショート動画の収益化が2023年から可能となったということで時代はいよいよショート動画天国であり、つまるところ規制がゆるゆるの今は晒し天国でもあるのだった。
ゲスな話だが、晒し系の動画は面白いのである。顔や音声が隠されずそのまま公開されているからこその生々しさがもたらす興奮や愉悦はたしかに存在する。
それらのコンテンツが日々無数に流れ消費されている状態がもはや日常となった昨今、それらのコンテンツに出演している、晒された人たちのその後の人生は気にかかる。人生が大なり小なり狂わされる程度のダメ―ジを、晒された人は負うからである。