過剰なネット叩きは問題視傾向
「ネットリテラシー」の成長か

 そしてこれも昨今の風潮といえようか、ネットリンチは必ず行き過ぎるので、晒された人が負うダメージは、「これぐらい痛い目を見ておけば、まあ良しとしてもいいのでは」という第三者の無責任な想定をいつも大幅に上回る。

 つい先日アイドルの対面イベントで「はがし(ファンがその場に長く止まらないように誘導する係)」を務めたスタッフが炎上して個人名や住所などが特定される騒ぎ(後日一部はデマだったと判明)になったが、そこまでの制裁を受けるべきだったかは甚だ疑問である。

 だが過剰なネット叩きが問題視される機会も増えてきているように感じていて、これは社会のネットリテラシーの成長だととらえたい。そして流れに乗じて、いともたやすく行われている晒し動画について今一度考えてみたい

 スマホとSNSの登場で、自衛や攻撃の手段のひとつに「撮影」というコマンドが加わった。これには相手をけん制する効果があるのと同時に、撮影すること自体がその後のネット投稿をも匂わせているので、かなり暴力的とも言える。

 狡猾な人間は自衛を拡大して相手を積極的に傷つけようとするから、「撮影」がその卑劣なコマンドの一環として用いられることもある。

 かつて世間を騒がせた「騒音おばさん」が、「実は被害者に先に嫌がらせを仕掛けられていた」という説がある。真偽は別にして、この説が流布すること自体に、一見被写体の人物に非がありそうな動画でも、撮影者に非が隠されているケースはある……という可能性を示唆している。

 だが撮影者、晒す側のモラルが問われることはほぼない。被写体の人物が糾弾されるのみである。これは撮影者が気配を消しているほどその傾向が強まる。被写体の行動・言動がフォーカスされるからであろう。撮影者が何か言い返したり自我を出すと、撮影者も一緒に「どっちもどっち」的な切り口で叩かれ始めることがある。

 とはいえ、動画を投稿する方は正義=多数派を味方につけられるという目算の元動画投稿に至っているわけで、都合の悪いところは編集でなんとでもなるし、極めて自分に有利なところから問題提起を始められる。