「普遍的な優秀さ」は
幻想でしかない
しかし、「仕事ができる」というのは、絶対的なものというよりも相対的なものです。つまり、他の誰かとの比較や、場面によって異なる概念だということです。
「優秀な人はどんな仕事をさせても優秀か」と言えば、そうではありません。「どんな時代でも優秀か」と言えば、それも違います。「仕事ができる」ということの定義は、時代や文化、業界、企業によって変わるものなのです。私たちが「優秀な人材」と呼ぶ人は、特定の環境や文脈の中で評価されている人であり、別の環境では同じように評価されるとは限りません。
例えば戦国時代に、馬を駆り、武具を操り、一騎打ちで名を馳せた武将でも、徳川氏の政権下では、統治スキルや管理能力のある大名の後塵を拝したかもしれません。
会社においてもかつては「忠誠心」や「勤続年数」が評価されていましたが、現在では「イノベーション力」や「変化への適応力」がより重視されるでしょう。また、営業職では「コミュニケーション能力」や「粘り強さ」が求められるかもしれませんが、研究職では「専門知識」や「論理的思考」が評価されるかもしれません。
協調性が重視される日本企業と個人の成果が評価されるアメリカの企業でも、「優秀さ」の定義は異なります。
このように、普遍的な優秀さというのは、ある意味で幻想なのです。いつの時代にも、どの場所でも、どの職種でも通用する「優秀さ」というのは存在しないと私は考えています。
もっと言えば、同じ人でも時間の経過とともにその評価が変わりうるということです。デジタル化以前に「優秀」だと評価されていた人が、デジタルスキルの欠如により一転、「時代遅れ」「使えない」と評価を下げることはよくある話です。
こうした観点から見ると、「この人は優秀だ」という評価は、必ずしも永続的なものではなく、特定の時点、特定の環境における評価に過ぎないということが分かります。そして、この評価が変わる可能性は常にあるのです。