「天下は天下の天下なり」――家康が260年の平和を築けた“戦わず勝つ”戦略とは?
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※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

名軍師・黒田官兵衛と家康の言葉
播磨国(兵庫南西部)出身の武将で、豊臣秀吉を天下人へと導いた名軍師として知られる黒田官兵衛(1546~1604年)を描いた2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に、こんなシーンがありました。
関ヶ原の戦いで勝利した後の徳川家康と黒田官兵衛の会話で、家康は「天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり」と語りました。
これは「天下というものは、一人のための天下ではない。天下とはすべての人のものであり、政務を司る者は、そのすべての人のために天から託されているのだ」と解釈できます。
さらにその後には、「自分が死んでも争いが発生しない泰平の世をつくりたい」という趣旨の言葉が続きました。
このシーンはフィクションですが、家康が「天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり」という言葉は好んで使っていたのは事実です。
関ヶ原の戦いは「平和か再びの戦か」の選択だった
関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉を継いだ8歳の豊臣秀頼(秀吉の三男)を盛り立てようとする石田三成と、豊臣家に代わって天下人となろうとする家康との戦いでした。
全国の大名は三成側と家康側に分かれ、各地で戦いが繰り広げられましたが、関ヶ原(岐阜)で決戦が行われ、多くの大名を味方にした家康が勝利。これにより家康は、天下人となったわけです。
大名たちが家康に賭けた「平和への希望」
それにしても、なぜ家康は、関ヶ原の戦いで勝利できたのでしょうか。
私は、多くの大名が、家康が目指していた社会により、平和な時代が到来すること、また経済的幸せも実現できると感じたことが大きいと考えます。
家康は旗印として、「厭離穢土欣求浄土」という言葉を掲げていました。
これは仏教の言葉ですが、「穢がれた現代を逃れ、極楽浄土に生まれ変わることを心から願う」という意味であり、戦乱(穢れた現代)から平和な時代(極楽浄土)への希望を感じさせるものだったのです。