女性に人気のあった睦雄は、前述の寺井ゆり子や西川良子だけでなく、集落内の10人以上の女性と性的な関係を持っていたとされる。特に年上の既婚女性にもてていたようだ。当時の山村にはいない優男タイプの睦雄は、母性本能をくすぐったのだろう。
当時の農村は総じて早婚の傾向にあり、睦雄より年上の女性は既婚者である場合が普通だった。
結核の罹患により
女性たちが去っていく
村内の女性にもてた睦雄は夜這いの風習を謳歌していた。しかし、そんな睦雄にある日、悲劇が訪れた。
19歳のとき「肺尖カタル」、すなわち軽度の結核の診断を受けた。今でこそ、結核は治療可能な病だが、結核は当時の死亡率の上位に入る重病であり、“不治の病”と考えられていた。
睦雄が集落内で頻繁に女漁りを始めたのは結核にかかる前からだとも、結核に感染したあとからだとも言われており定かではないが、結核に感染した噂が集落内に広まったことで、睦雄は以前のように女性にはもてなくなった。なかには睦雄が夜這いで出向いても手のひらを返したような冷たい対応をした女性もいたという。
そして、睦雄は集落内で女性と関係を持つ際には対価、つまり金を支払うようになった。
金をもらえるのであれば、睦雄と関係を持つことも厭わないと考える女性も少なからずいたようで、睦雄は19歳から50歳までの集落内の女性を口説いて関係を持とうとした。
なかには若い娘を狙って白昼に夜這いをかけたものの娘の母親しかいなかったため、仕方なくその母親を口説いて関係を持ったこともあったという。
金は自分の家の畑などを売り払うなどして工面していた。当時、睦雄は両親と死別し、家族は祖母と姉しかいなかった。姉はすでに他家へ嫁いでおり、事実上、睦雄は当主として、自分の家の財産を自由に処分できる立場にあった。
より詳細に事情を検証すれば、睦雄が自家の財産を本当に自由にできるようになったのは、睦雄の誕生日である昭和12年(1937)3月5日以後の話となる。それ以前は、睦雄の後見人の立場であった祖母いねが財布の紐を握っていた。
いねは金銭面の管理は比較的しっかりしていたことから、睦雄の金遣いが本格的に荒くなったのは、昭和12年3月以後のことだろう。それ以前からも小遣いは十分にもらっていたはずだが、限度があった。「かなり昔から都井睦雄が金にあかせて、女を買っていた」という噂もあったが、それは誤りだろう。