異常なほど
性に執着していき…

 とはいえ、いくら当時の農村が性に関して開放的だったとはいえ、睦雄の行動と執着心は明らかに常軌を逸脱したレベルにあった。

 睦雄と関係を持ち、いい小遣い稼ぎをしていた女性たちも、やがて次々と睦雄から距離を置くようになった。なかにはかなりの額の金を受け取りながら、睦雄を恐れて凶行数日前に家族を挙げて京都まで引っ越した女性もいた。時には堂々と、時には陰で睦雄の悪口雑言を口にする者もあちこちに現れた。

 睦雄にとって、山村での暮らしはストレスの多い環境となったことは言うまでもない。

 地元の古老の話によると、前述した遺書のなかで名前が登場した寺井ゆり子や西川良子らも、睦雄からかなりの額の金額を受け取り、関係を結んでいたという。しかし、本人たちはその後の警察などの取り調べで都井との肉体関係を否定しているため、真偽のほどは定かではない。

 いずれにしろ、ふたりは事件の起きる数カ月前に睦雄を捨てるように、他家へ嫁いでいってしまった。

 そうしたふたりの女性の行動は、彼女たちが意図したものだったかどうかはともかく、睦雄にとっては裏切り行為以外の何物でもなかった。

『津山三十人殺し 最終報告書』書影『津山三十人殺し 最終報告書』(石川 清、二見書房)

 睦雄は傷ついた。折から戦火は拡大しつつあり、村の若い男性は次々と兵隊に取られていった。しかし、睦雄は結核を患っていたため、兵役にさえ就けない。正確には、睦雄は徴兵検査に「丙種合格」だった。

 当時の徴兵検査の合格には、上から甲種、乙種、丙種などランクがあり、甲種と乙種合格までが一般的な合格ラインとされた。

 そして丙種合格は、「戦場では使い物にならない欠陥品」という、いわば負の烙印(らくいん)といえるものだった。これは睦雄のプライドを大きく傷つけ、コンプレックスとなったはずだ。

 そんな鬱々(うつうつ)とした気分の最中、自分を裏切って他家へ嫁いだふたりの女性がたまたま里帰りした。

 この機会を逃すことなく、睦雄は凶行に走った――。