徴兵逃れて遊郭で“お祝い”…「津山30人殺し」犯人が“夜這い”を繰り広げた村の事情写真:あばさー

1938年、岡山県の集落で起きた大量殺人事件「津山三十人殺し」。1時間半の間に約30人もの村人を次々に殺害した犯人・都井睦雄は、色白で華奢、しかも秀才の優男だった。もともと女性に人気のあった睦雄だが、当時彼がモテた理由はそれだけではなかったという。※本稿は、石川 清『津山三十人殺し 最終報告書』(二見書房)の一部を抜粋・編集したものです。

犯人・都井睦雄の
肺炎は軽症だった

 なぜ、睦雄が集落の多くの女性たちと関係を持てたのか??それには、戦争が深く関係している。

 昭和2年(1927)、日本は明治以来の徴兵令を強化し、兵役法を定めた。毎年4月から7月にかけて、各地で徴兵検査が行なわれ、原則として20歳の若者は兵役に就くこととなった。

 睦雄は昭和12年(1937)5月2日、徴兵検査を受けて、丙種合格(事実上の不合格)の憂き目に遭った。

 睦雄は丙種合格だったが、これは徴兵検査のときに軍医に対して、必死に自分は肺病であると訴えたためだ。その根拠として、睦雄は自分が昭和10年12月に「肺尖カタル」の診断を受けていること、両親が肺結核で死んだことなどを訴えていたと言われる。

 睦雄は遺書のなかで次のように書いている。

 …実際、体なりと丈夫にあったら、こんなことにもならなかったのに。もしも生まれ変われるものなれば、今度は丈夫な、丈夫なものに生まれてきたい考えだ。

 本当に病弱なのにはこりごりした。

 僕の家のこと、姉のことなどを考えないのではないけれど、どうせこのまま生活していたら、肺病で自滅するよりほかはない。そうなると、無念の涙をのんだまま、僕は死なねばならぬ。…