【面白すぎる世界史】中華皇帝とモンゴルのハーン…清の支配者が“2つの顔”を持った理由
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

【面白すぎる世界史】中華皇帝とモンゴルのハーン…清の支配者が“2つの顔”を持った理由Photo: Adobe Stock

清――満洲人による多民族支配

 17世紀初頭に、中国東北部に割拠した女真人が再び台頭を始めます。女真人といえば、12世紀に金という国を建国し、北宋から華北を奪った民族です。

 その女真人がヌルハチ(在位1616~1626)という首長によって統一され、金(後金)という国が建国されます。ヌルハチはまた自身の国を「満洲(マンジュ)」と呼び、これ以降に女真人は現在まで満洲人と呼ばれるようになります。

 ヌルハチの後継者ホンタイジ(在位1626~1643)は、国号を後金から「清(大清)」に改めます。そして朝鮮半島や内モンゴルを制圧し、いよいよ中国への進出を本格化させます。そうしたなかで1644年に北京で李自成の乱が起き、これにより明は滅亡します。

 明の滅亡を受け、万里の長城の東端に近い城塞・山海関の守将であった呉三桂は、仕えるべき主君を失ったことで清に降伏し、清の順治帝(在位1643~1661)は長城を突破して北京を占拠します。こうして清は中国の支配を固めます。この順治帝ののち、清では康熙帝(在位1661~1722)、雍正帝(在位1722~1735)、乾隆帝(在位1735~1795)と3代の皇帝の治世に全盛期を迎え、後世に「三世の春」と呼ばれました。

 一方、清は中国だけでなく、モンゴル諸族との抗争にも明け暮れます。なかでも東トルキスタンに割拠したジューンガルという遊牧国家は、清に頑強に抵抗しましたが、康熙帝の攻勢を受け屈服したのを機に、雍正・乾隆の2代をかけて清の支配下に入ります。

 このように、清は現在の中華人民共和国を中心に、モンゴルなどを併せた広大な領域を支配し、その結果として多民族統治を余儀なくされます。

清の支配領域から読み解く「現代中国」

 清の支配領域は大きく2つに区分できます。一つは東部の直轄領、もう一つは西部の藩部です。この2つの地域は政治・社会体制が大きく異なっており、清ではこれに応じた柔軟な支配で臨みます。

 まず、直轄領は漢民族を中心とした農耕民が多く、これには中国の伝統に倣った地方統治体制(具体的には県→府→省の3単位からなる行政区分)を敷きます。また儒教や科挙といった漢民族の伝統も保護し、いわば清の君主は「中華皇帝」としてこの地では振る舞います。

 一方、藩部はモンゴル諸部族が割拠し、ここでは「モンゴルのハーン(大カン)」として権威付けを試みます。ここで重要な地域となるのがチベットです。チベットはチベット仏教の発祥地であり、これはモンゴル帝国(元)が保護したことにより、モンゴルの民族宗教としても普及します。現在でも、モンゴル国と内モンゴル自治区のモンゴル人の多数派を占めるのが、このチベット仏教徒なのです。下図(図33)を見てください。

【面白すぎる世界史】中華皇帝とモンゴルのハーン…清の支配者が“2つの顔”を持った理由出典:『地図で学ぶ 世界史「再入門」』

 清の君主は、チベット仏教の最高僧であるダライ・ラマを保護し、その宗教的な権威も利用してモンゴル諸族に支配を及ぼしたのです。実際の藩部の支配には、理藩院という機関を設置して統治に当たりましたが、諸族がその支配に服したのも、内陸アジア伝統の政治・宗教的な権威を利用したものだったからです。

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)