超一流スポーツ選手に共通する「思考法」を学び、ビジネスに活かすための1冊『超☆アスリート思考』が発売された。この記事では、同書にも登場する、オリンピック柔道史上初の3連覇を成し遂げた野村忠宏さんに、過酷な練習を「やり抜く力」の根源にある「子ども時代の貴重な経験」について語っていただいた。(インタビュー/金沢景敏 構成/前田浩弥)

――野村さんは、柔道家として結果を追い求め続ける競技生活を送る中で、「子どものころにあんなに楽しかった柔道も、いつの間にかまったく楽しくなくなった」とおっしゃっていますよね。そこまで過酷な競技生活を40歳まで全うできた背景には、どのような考え方があったのでしょうか?
道場という「場所」が楽しかった子ども時代
子どものころの柔道は、自分にとって、ただただ楽しいものでした。
というより、道場という「場所」が楽しかった、と言ったほうが正確なのかもしれません。
子ども同士が夜、道場に集まり、学校の話をしたりテレビの話をしたりする。教えてもらった技の練習をして、投げたり投げられたりしながら腕を磨く。道場を運営する祖父の目を盗んでは、柔道でも何でもない単なる「プロレスごっこ」をしてただふざけ合う――そのような日々の中で、柔道はいつも「楽しいもの」として、私の生活の一部になっていきました。
しかし中学で柔道部に入ることで、勝負の世界に入り、柔道は単に「楽しい」だけのものではなくなりました。
そして、徐々に「柔道を楽しむこと」ではなく「結果を出すこと」が優先順位の第1位になっていったのです。「憧れ」だったオリンピックが現実的な目標に変わったころからは、金メダルという目標を達成するために、ひたすら自分を追い込む厳しい練習と向き合ってきました。畳の上でも、日常生活の中でも、「競技者として必要ではないもの」を律する日々が始まったのです。
いつしか私は、柔道に対して、子どものころのように毎日ワクワクする楽しさを抱くことがなくなりました。「結果を出すためには、楽しさや甘さは排除しなければいけない」と考えていましたし、競技者としてはこれが正しかったのです。
なぜなら、「強さを求める真剣な柔道」を選び、精進した結果、私はアトランタ、シドニー、アテネと、オリンピック柔道史上初の3連覇を果たすことができたのですから。

柔道男子60kg級でアトランタ、シドニー、アテネで柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック3連覇を達成。2013年に弘前大学大学院で医学博士号を取得。引退後は国内外で柔道の普及活動を行い、スポーツキャスターやコメンテーター、講演活動など多方面で活躍している。
「好きになれば子どもなりに目標を持っておのずと努力する」
祖父が他界したのは、私の出場が叶わなかった北京オリンピックが行われた、2008年のことです。
祖父のことをよく知る方に、「おじいさんはこんな思いを持って、子どもたちに柔道を教えていたんだよ」という、祖父の口癖を教えてもらいました。
正確にお伝えするために、その口癖を、私の著書から引用させていただきます。
「子どものうちは厳しい稽古は必要ない。柔道の基本と礼儀を学びながら柔道の楽しさを知り、そして柔道を好きになってほしい。好きになれば柔道を続けてくれる。好きになれば子どもなりに目標を持っておのずと努力する。だから柔道を好きになってくれれば、それでいい」(『戦う理由』野村忠宏、学研プラス)
この言葉を聞いて、「だから私は、『強さを求める真剣な柔道をしよう』と自ら選ぶことができたのだ」と、腑に落ちました。
なぜならば、中学生のときに、私が柔道の厳しい世界に挑戦したいと思えたのは、柔道が好きだったからです。
柔道が好きでなかったら、そんな選択をするはずがない。好きだから、挑戦するのです。そして、どんなに厳しい試練が訪れても、「自分で決めたことなんだから、頑張ろう」と思えたのです。
もちろん、金メダルをめざしている頃は、「柔道が楽しい」と思ったことはありません。
しかし今思えば、そのもっと根底の部分で、ずっと柔道のことが好きだった。だからこそ、苦しくて厳しい練習にも耐えることができたんじゃないかと思うのです。
祖父のいう、「好きになれば子どもなりに目標を持っておのずと努力する。だから柔道を好きになってくれれば、それでいい」という言葉の深い意味を知り、目を見開かされる思いがしました。
私が厳しい現役生活を全うできたのは、自分で「柔道をやろう」と決めた、「自己選択思考」の賜物だと思っています。
そして自身に芽生えた「自己選択思考」の種は、子どものころ祖父によって蒔かれ、大事に育てられたものだったのだと、私はオリンピック3連覇を成し遂げた後に気づいたのでした。(野村忠宏さん/談)
(このインタビューは、『超⭐︎アスリート思考』の内容を踏まえて行いました)
AthReebo株式会社代表取締役、元プルデンシャル生命保険株式会社トップ営業マン
1979年大阪府出身。京都大学でアメリカンフットボール部で活躍し、卒業後はTBSに入社。世界陸上やオリンピック中継、格闘技中継などのディレクターを経験した後、編成としてスポーツを担当。しかし、テレビ局の看板で「自分がエラくなった」と勘違いしている自分自身に疑問を感じ、2012年に退職。完全歩合制の世界で自分を試すべく、プルデンシャル生命に転職した。
プルデンシャル生命保険に転職後、1年目にして個人保険部門で日本一。また3年目には、卓越した生命保険・金融プロフェッショナル組織MDRTの6倍基準である「Top of the Table(TOT)」に到達。最終的には、TOT基準の4倍の成績をあげ、個人の営業マンとして伝説的な数字をつくった。2020年10月、AthReebo(アスリーボ)株式会社を起業。レジェンドアスリートと共に未来のアスリートを応援する社会貢献プロジェクト AthTAG(アスタッグ)を稼働。世界を目指すアスリートに活動応援費を届けるAthTAG GENKIDAMA AWARDも主催。2024年度は活動応援費総額1000万円を世界に挑むアスリートに届けている。著書に、『超★営業思考』『影響力の魔法』(ともにダイヤモンド社)がある。