ハリー・トルーマン米大統領とウィンストン・チャーチル英首相Photo:Keystone /gettyimages

「オレンジの実ほどの大きさしかない爆弾が、一つのブロックの建物群を丸ごと破壊する、いや1000トンのコルダイト(無煙火薬)のエネルギーを集中させて一撃で一つの町を爆破する秘めた力を持つようになる可能性はないだろうか」。ウィンストン・チャーチルは1924年9月、このように尋ねた。その21年後に彼は一つの答えのようなものを得た。米国が日本を爆撃し、1945年8月6日に広島で7万人、3日後に長崎で4万人もの人々をたちどころに殺害した。

 それから80年間にわたり世界中で続いている議論は、民間人に対してそのような兵器を使用したことが人類史上最も悲惨な戦争の終結に直結したのだとしても、それを行ったハリー・トルーマン米大統領とチャーチル英首相は道徳的に正しかったのかというものだ。彼ら2人は常々、戦争犯罪人だと非難されてきた。

 彼らに何のためらいもなかったのは確かだ。チャーチルが第2次世界大戦の回顧録「勝利と悲劇(Triumph and Tragedy)」(1953年出版)の第6巻で振り返っているように、原子爆弾投下の決定は「論点でさえなかった」。「われわれのテーブルの周りには全会一致の、自動的な、疑う余地のない合意があった。われわれが他の対応を取るべきだという提案は、かすかにさえ私の耳に入ることは決してなかった」

 さらに、注目すべきは、こうした議論において、いずれの立場でもキリスト教の倫理や正戦論(正しい戦争とは何かという理論)がほとんど想起されなかったことだ。このような問題は、主要連合国からの参加者の意識的な思考に入っていなかったと思われる。その理由として容易に推測できるのは、彼らがキリスト教徒だけで構成された集団だったため、議論する上でアウグスティヌスやトマス・アクィナスを持ち出す必要性がほとんどなかったことだ。これが異教の社会における同様の集団であったとしても、民間人の犠牲者についてわざわざ問うことはなかっただろう。例えば、イスラエルの破壊を狙うイランの指導者たちは現在、民間人の犠牲者について気にかけていない。