徳川家康没後400年の年も終わりに近づいている。
江戸という時代は、明治近代政権によって「全否定」された。
私たちは学校の教科書で、「明治の文明開化により日本の近代化が始まった」と教えられてきたが、はたして本当なのか?
ベストセラー『明治維新という過ち』が話題の原田伊織氏は、これまで「明治維新とは民族としての過ちではなかったか」と問いかけてきた。
そして、今回さらに踏み込み、「2020年東京オリンピック以降のグランドデザインは江戸にある」と断言する。
『三流の維新 一流の江戸――「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』が話題の著者に、「二度と過ちは繰り返しません」の本当の意味を聞いた。

正義の基準は意外と脆い

原田伊織(Iori Harada)
作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など

 私たちは、明治維新という出来事以降の時代、即ち、明治時代以降を「近代」と呼ぶように教育されてきた。
 平成という現代は、まさにその近代の最中にある。
 単なる時代区分の呼称としてだけのことなら、これは殊更問題にすべきことではない。

 しかし、私たちが受けてきた教育、今も学校教育として施されている教育――これを「官軍教育」と呼ぶことについては、今やかなりの規模と広がりのコンセンサスが成立している――では、近代=先進的という意味を色濃く含ませて教え込まれるのである。

 いい換えれば、近代より前の時代=前近代は「後進的」な時代として否定すべきものという教育が、今もなお為されているのだ。

 このことは、日本列島の津々浦々、辺境の分校に於ける教育にまで、見事に徹底されている。
 洋の東西を問わず、古来、戦(いくさ)の勝者が「歴史を書く」ことは、ごくごく普通のことであった。

 多くの場合、勝者はその戦と戦に至ったプロセスの正当性を説くのだ。このことは、中国史に於いても西洋史に於いても何ら変わりはない。
 このことについて、それは誤りだ、間違いだなどということにほとんど意味はないのだ。
 一つには、正義というものにも普遍性がないからである。

 このようにいうと、正義はいつの時代でも正義であろうと、意外に思い、異議を唱える読者も多いことだろう。

 しかし、平成という今、私たちが正義としている価値や思想、行為は、ほとんどが西欧価値観によって正義とされているに過ぎないのだ。
 正義の基準とは、意外に脆(もろ)いもので、時にそれは揺れ動くということを知っておかなければならない。

 問題は、勝者の書いた歴史は一定期間を経て一度は検証されるべきものであるという宿命ともいうべき性格をもっているということだ。

 人類の歴史を紐解けば、どの民族でも五十年、百年という時間を経てそれを行っている。
 ゲルマン民族がヒトラー台頭の歴史を自ら厳しくみつめ直したことも、身近な一例といえるだろう。