日本の運動会の欠点
「平等」がもたらす見えざる心の負担
日本の運動会の目玉は、団体競技であることに異論はないでしょう。大勢で踊るダンスや、息を合わせる大玉転がし、クラス対抗のリレー……「集団の和」を重んじる教育方針は、日本の発展を支えた一面もあるかと思います。運動会は、まさにその考えを子どもたちが体感する象徴的な場でした。
この思想は、一見すると素晴らしいものに思えます。「運動が苦手な子も、得意な子も、みんなで一緒に頑張る」。それは、協調性を重んじる日本社会の美徳の表れであり、誰ひとり取り残さない優しさのようにも感じられます。
しかし、現実はどうでしょうか。団体競技において、運動が苦手な子は、時に「みんなの輪を乱してしまう存在」としてプレッシャーを感じることがあります。リレーで少し遅れてしまった子、ダンスの振り付けを間違えてしまう子……。本人に悪気はなくても、そのひとつの失敗がクラス全体の成績に影響してしまうため、強い責任を感じてしまうのです。
そもそも日本の教育は、大きな矛盾を抱えていると思います。運動会で個人の順位付けを避ける傾向になって久しい一方で、学力テストでは偏差値や順位という形で、これでもかというほど子どもたちを序列化します。
これでは、得意な運動では評価されずに、あまり得意ではない勉強では評価される、といったことが起こり得ます。このねじれこそが、子どもたちから「自分の得意なことで輝く自信」を奪っているのではないでしょうか。
欧米は「得意」を称え
「互い」を尊重する文化
一方で、イギリスのスポーツデイは、日本の運動会とは全く異なる考えが貫かれています。最大の違いは、スポーツデイが「才能のある個人が、正当に評価され、称賛される場」であることです。勝者は明確に順位をつけられ、全員から惜しみない拍手で祝福されます。
それは、スポーツデイで競技が終わった直後の光景に表れています。1位になった子だけでなく、レースを終えた子は順位に関係なく互いの肩を叩き、「よく頑張ったな」と健闘を称え合っているのです。勝者への嫉妬や敗者への侮蔑はなく、互いの全力をリスペクトする、清々しいスポーツマンシップが見えます。