人類の歴史は、地球規模の支配を築いた壮大な成功の物語のようにも見える。しかし、その成功の裏で、ホモ・サピエンスはずっと「借りものの時間」を生きてきた。何千年も続いた栄光は、今や終わりが近づいている。なぜそうなったのか? 発売たちまち重版となった『ホモ・サピエンス30万年、栄光と破滅の物語 人類帝国衰亡史』は、人類の繁栄の歴史を振り返りながら、絶滅の可能性、その理由と運命を避けるための希望についても語っている。竹内薫氏(サイエンス作家)「深刻なテーマを扱っているにもかかわらず、著者の筆致がユーモアとウィットに富んでおり、痛快な読後感になっている。魔法のような一冊だ」など、日本と世界の第一人者から推薦されている。本書の内容の一部を特別に公開する。

「ヨーロッパ全土で猛威をふるい、その結果、何百万人も飢餓で命を落とした…」。多くの人々がアメリカなどの海外に移住するきっかけともなった“衝撃の飢饉”とは?画像はイメージです Photo: Adobe Stock

ペストと飢饉

 人口の増加と、限られた作物に依存する暮らしは、人々を飢饉にさらすことになる。産業革命以前のヨーロッパでは、悪天候の影響などで、飢饉は定期的に発生していた。

 ただし、その多くは人口が多い時期に集中しているのが特徴だ。逆に、十四世紀のペスト(黒死病)以降の二世紀のあいだは、飢饉の発生が少なかった。このパンデミックによって多くの人々が命を落とし、生き残った人々には相対的な豊かさがもたらされたと考えられている。

ジャガイモ飢饉はなぜ起きたのか?

 産業革命以降、少なくともヨーロッパでは飢饉はまれになった。もっとも、完全になくなったわけではない。

 近代以降の飢饉は、自然災害というよりも、むしろ専制政治や失政によって引き起こされるか、少なくともそれによって深刻化する傾向がある。たとえば、初期の共産主義下のソ連や中国の「大躍進政策」によるものが挙げられる。

 なかでも特筆すべき例が一八四〇年代のアイルランドで起きた「ジャガイモ飢饉」だ。

 このとき、ジャガイモは「ジャガイモ疫病」を引き起こす糸状菌(しじょうきん)症病原体フィトフトラ・インフェスタンスに感染し、壊滅的な被害を受けた。

何百万人もの餓死者

 この病気は当時ヨーロッパ全域で猛威をふるっており、現在もなお存在しているが、アイルランドでは被害が特に深刻だった。

 その背景には、悪天候、大勢の人々が単一の作物に過剰に依存していたこと、土地を放置したまま利益だけを吸い上げる、イギリス人の地主たちによるひどい土地管理、そしてロンドンの政府による冷淡な対応があった。

 その結果、何百万人もの人が飢餓で命を落とし、さらに多くの人々がアメリカをはじめとする海外へと移住した。母国の人口は激減したのである。

多様性が失われたバナナ

 現代の私たちが学ぶべき教訓が、ここにある。膨大な人口が少数の作物に依存し、しかも世界中の国々が互いに強く結びついている現在、食料の安定供給を維持するのは非常に難しい。

 この文章を書いている今も、ロシアによる侵攻と広範な占領が続いているウクライナは、世界の小麦供給において重要な生産国のひとつなのだ。

 この戦争によって小麦の生産と流通が妨げられ、世界中で食料価格が劇的に高騰する事態を招いている。

 しかし、人々は教訓をそう簡単に学ばないものだ。農家が栽培している作物は種類が少ないうえに、その多くは集中的な栽培で高収量が見込める特定の品種に限られている。

遺伝的にはまったく同じ

 たとえばバナナを見てみよう。この植物はおよそ七千年前に東南アジアで栽培化されたが、現在の世界の生産量の半分は「キャベンディッシュ」という単一の品種に依存している。

 さらに悪いことに、キャベンディッシュはすべてクローン――つまり遺伝的にまったく同じ個体であるため、さまざまな害虫や病気にとって格好の標的となっている。

農耕がもたらした新たな負担

 この作物の生産が脅かされているのはそのためだ。バナナがなくても世界は回るかもしれない。だが、これはすべての作物にとっての重大な教訓であるのは間違いない。

 狩猟採集民は常に飢えの瀬戸際にあるような生活を送っているが、通常は、農業の発明によって生じた深刻な栄養失調や健康問題には悩まされていない。農業がもたらしたのは、人口密度の上昇、感染症の流行、そして飢饉といった新たな負担だった。

 また狩猟採集民は、農業の発明以後の人々に比べて、はるかに多様な食物に依存して生活している。農耕民は限られた種類のデンプン質の作物に頼るため、それらが不作になると飢饉のリスクが一気に高まるのだ。

(本原稿は、ヘンリー・ジー著ホモ・サピエンス30万年、栄光と破滅の物語 人類帝国衰亡史〈竹内薫訳〉を編集、抜粋したものです)