羽生善治九段が
相手の得意戦法で戦う理由

 可能な限り「最短の勝ち」を目指します。理詰めで考えるタイプなので、対局が長引くとヒューマンエラーが出るリスクが高いとみているのでしょう。彼にとっては最短で勝つということが、「安全」なのです。

 それに気づいた時、自分の発想が変わりました。意識的に「踏み込む場面」を作るようになったのです。

 ほかにも、あえて“相手の得意戦法で戦う”羽生善治九段の姿勢を参考にして取り入れ、対局相手から自分が持っていないものを浴び、吸収できるようにしています。それによって自分の持ち味が増えた気がします。

 でも相手の得意戦法で戦ったり、新しい戦法を取り入れたりしたら、「勝率」が悪くなるんじゃないかって?

 ええ、それは……当初はそうだった気もします。といいますか今も悪いかもしれません(笑)。おそらく私が公式戦で一番勝っていたのは30代前半ですが、その時と比較して50代の今、はっきり勝率が下がっています。けれども将棋の内容は昔よりよほど充実しているのです。

得意な戦法だけでは限界がくる
限界がわからない未知の分野は楽しい

 かつてはたった一つの戦法しかなかった自分が、今は対局前に指す戦法を迷えるようになりました。何種類かある戦法の中から「どれにしようかな」と考える。それは自分の中でとても嬉しいことなんです。

 もし今も「振り飛車」だけが自分にとって唯一の戦法だとしたら、自分の限界を感じていたと思います。でも未知の分野に踏み込むことで、もっと向いている戦法に出会えるかもしれない。さすがに現実味はないですが、これからタイトルも狙えるかもしれない。

 自分の限界が自分でもわからない、見通しが立たないから未知の分野は楽しい。20代の頃より50代の今、将棋に対して最高の充実感を覚えています。

強みがある人ほど
新しい仕事を試してみて

 ですからビジネスパーソンの方も、特に何かひとつ強みがある人ほど、意識的に仕事を広げていくと良い影響があるのではないでしょうか。副業までいかなくても、社内で無駄と思われるような雑用や、隣席の人の仕事の手伝いなどでも発想に活かされるかもしれません。

 私は将棋以外に、『週刊文春』でエッセーを執筆するなどの仕事があります。正直依頼を受けた当初はかなり尻込みしました。実際他の仕事をすると将棋の研究時間が減ってしまいますから、物理的・時間的メリットはないように思います。でも将棋の研究と、執筆の構想では脳の違う部分を使っているのか、“柔軟な発想”になるのです。

 一度ちょっと将棋から離れ、違う仕事に取り組む。そしてもう一度将棋に戻って同じ局面を見た時、それまでにない発想がいろいろ浮かびました。役立つことがあると実感したのです。

 若い人や弟子の考えを聞くだけでも脳に良い影響がある気がします。若者の考えを「受け入れられない」と思って聞くと、注意してしまうのでしょうが、関心を持って聞くと「そういう考え方もあるのか」と非常に楽しい。若いですから技術も高くなく未熟な面も多いのですが、そのぶん純粋で、自分にない発想を持っているのです。