
上智大学教授の渡部昇一(1930年10月15日~2017年4月17日)が1980年1月1日号に「歴史的楽観主義のすすめ」と題した論考を寄せている。80年代に入った新年最初の号ということで、未来予測的な側面もあり、興味深い内容だ。半世紀近く後を生きる立場から論評するのはいささか無粋であるのは承知しているが、あえて“答え合わせ”をしてみよう。一言でいうと、80年という時点で見事に現代を言い当てている部分と、惜しいところが入り混じっている。
渡部というと英語学者、哲学者であり、保守派の評論家として知られるが、80年時点において「共産主義の脅威がなくなり、国民は野党の能力を疑っているため、自民党政権はイデオロギー的に安定している」と評価している。イデオロギーとしての共産主義が「ほとんど壊滅した」という分析は、この後にベルリンの壁崩壊(89年)やソ連崩壊(91年)が起こったようにおおむね正しい。もっとも、まだ文化大革命の混乱から抜けきれていなかった中国が、いまほどの巨大な経済力を持つ超大国に変貌を遂げるとは、渡部に限らず誰も予測できなかっただろう。
自民党の安泰については、当たっている面もあれば外れている面もある。93年には非自民政権が誕生し、2009年には民主党が政権を奪取した。しかし結果的には短命政権で終わり、「やっぱり自民党に戻る」という構造は変わっていない。
また、21世紀はポピュリズムや右派の台頭が進み、それに対するリベラルの逆襲も始まり、分断政治が激化している。80年には想像できなかった「左右が再び激しく対立する時代」が到来しているともいえる。
論考のキーワードである「歴史的楽観主義」について渡部は、明治が終わったとき『もう成功者は出ない』と悲観した人は成功しなかった。逆に「『チャンスはまだある』と考えた人が成功した」という例を引き、どの時代にもチャンスはあり、悲観にのまれた人は成功できないとして、「悲観に便乗せず、明るい要因を探せ」と主張している。
記事は80年代に入り、バブル経済の到来が目前に迫っているタイミングだ。「楽観的でいるべき」というのは当たっているが、「無根拠な楽観」がバブル崩壊による30年の停滞を招いた側面もある。後段で渡部は、当時の日本社会にはびこる「悪平等」を批判しているが、グローバル化、新自由主義の台頭による格差拡大といった現代の課題を知っている身としては、複雑な思いにも駆られる。
一方、日本の生活水準の高さや、東京の「ごちゃごちゃ感」が持つエネルギーを評価する視点も面白い。東京の多様性や創造性を生み出す都市としての魅力は、現代でも再評価されているし、渡辺が指摘した料理や武道に加えて、アニメ、漫画、ゲームといったポップカルチャーがその後の日本の国際的影響力の柱となっているのは周知の通りだ。
資源のない日本の可能性として「モノのないことこそが強み」と渡部は指摘している。資源価格の変動に左右されにくい分野で付加価値を生んでいくという、現代の日本が取るべき戦略を示しているともいえる。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
渡部というと英語学者、哲学者であり、保守派の評論家として知られるが、80年時点において「共産主義の脅威がなくなり、国民は野党の能力を疑っているため、自民党政権はイデオロギー的に安定している」と評価している。イデオロギーとしての共産主義が「ほとんど壊滅した」という分析は、この後にベルリンの壁崩壊(89年)やソ連崩壊(91年)が起こったようにおおむね正しい。もっとも、まだ文化大革命の混乱から抜けきれていなかった中国が、いまほどの巨大な経済力を持つ超大国に変貌を遂げるとは、渡部に限らず誰も予測できなかっただろう。
自民党の安泰については、当たっている面もあれば外れている面もある。93年には非自民政権が誕生し、2009年には民主党が政権を奪取した。しかし結果的には短命政権で終わり、「やっぱり自民党に戻る」という構造は変わっていない。
また、21世紀はポピュリズムや右派の台頭が進み、それに対するリベラルの逆襲も始まり、分断政治が激化している。80年には想像できなかった「左右が再び激しく対立する時代」が到来しているともいえる。
論考のキーワードである「歴史的楽観主義」について渡部は、明治が終わったとき『もう成功者は出ない』と悲観した人は成功しなかった。逆に「『チャンスはまだある』と考えた人が成功した」という例を引き、どの時代にもチャンスはあり、悲観にのまれた人は成功できないとして、「悲観に便乗せず、明るい要因を探せ」と主張している。
記事は80年代に入り、バブル経済の到来が目前に迫っているタイミングだ。「楽観的でいるべき」というのは当たっているが、「無根拠な楽観」がバブル崩壊による30年の停滞を招いた側面もある。後段で渡部は、当時の日本社会にはびこる「悪平等」を批判しているが、グローバル化、新自由主義の台頭による格差拡大といった現代の課題を知っている身としては、複雑な思いにも駆られる。
一方、日本の生活水準の高さや、東京の「ごちゃごちゃ感」が持つエネルギーを評価する視点も面白い。東京の多様性や創造性を生み出す都市としての魅力は、現代でも再評価されているし、渡辺が指摘した料理や武道に加えて、アニメ、漫画、ゲームといったポップカルチャーがその後の日本の国際的影響力の柱となっているのは周知の通りだ。
資源のない日本の可能性として「モノのないことこそが強み」と渡部は指摘している。資源価格の変動に左右されにくい分野で付加価値を生んでいくという、現代の日本が取るべき戦略を示しているともいえる。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
常識ある人にとって
マルクス主義は魅力を失っている
戦後大部分の間、日本の政治は自民独裁という形できたが、不思議なことに多くの人々、特に知識人層には自民党が多数党であるのは昔からの惰性であり、それはだんだん減っていくという考えが支配的だった。
「週刊ダイヤモンド」1980年1月1日号
進歩的なものがどんどん拡大して自民党に追いつくことが、進歩であり、革新であるとの漠然たる知的ムードがあった。
ところが、1979年までにイデオロギー的に日本人を引きつけるものは、ほとんど壊滅したといってよいだろう。それは、共産主義国は支配者が住むにはいいが、支配される側にはつらい体制であることが、黙って目を開けていれば見えてきたのである。たとえば、革新の一番先頭を切り、革命後60年以上もたつソ連で何が起こっているかを知れば、事態ははっきりするであろう。







