深澤 献
#5
「人間植林」という人脈構築術、誠意で信頼を積み立てる“ヤマ師”太郎の長期戦略【アラビア石油を創った男】
太郎は、人脈を「つくる」のではなく「育てる」ことを信条とし、誠実さと地道な努力で信頼を積み重ねてきた。札幌農学校で学んだ「良い果実は良い種子から生まれる」という教訓を「人間植林」と名付け、日々の気配りと誠実な行動で築いた人脈を、後の事業成功の礎としていった。

日本曹達を創業した化学者であり実業家である中野友禮が、終戦直後の「ダイヤモンド」の復刊第1号で、経済と社会が瓦解状態にあった日本の復興に必要な事業とは何かという問いに正面から答えている。

#4
革命下のロシアで「鮭缶」に全財産賭けた大勝負…“ヤマ師”太郎が掴んだ「人を信じ、頼る力」【アラビア石油を創った男】
1917年、ロシア革命の混乱下でウラジオストクに滞留する鮭缶に目をつけた太郎は、有り金をはたき大勝負に挑む。政情不安や取引無効の危機にも、太郎は人脈と機転を駆使し、難局を突破。リスクを恐れず「使いこなす」姿勢と、人を信じて託す胆力が、勝負師としての真骨頂だった。

#3
エジソンも家康もヤマ師だ!人生を「勝負の大きさ」で測った“ヤマ師”太郎の原点【アラビア石油を創った男】
父親との衝突を経て、太郎は「人生とは勝負の大きさ」と語り、「ヤマ師」と呼ばれることを誇りとするようになる。「ヤマ師で結構!」と父親に言い放った一言には、世間の評価や既成の枠に縛られず、自らの信じる道を突き進む覚悟と誇りが込められていた。

関西を地盤とする百貨店、大丸が東京駅に進出したのは1954年10月20日で、東京駅八重洲口の駅ビルに誕生した。1954年12月3日付の「ダイヤモンド」臨時増刊号で、当時の社長である北沢敬二郎が、東京駅進出に関して手記を寄せている。

#2
戦争を防ぐために何ができるか?若き日の“ヤマ師”太郎の葛藤と答え【アラビア石油を創った男】
戦争を起こさせないために、私たちは何をすべきなのか――。かつて札幌農学校の学生だった太郎は、内村鑑三の「非戦論」に深く共鳴しつつも、それを貫く難しさにも真正面から向き合っていた。その思いは70歳を目前にして再び立ち上がり、中東での石油利権獲得という前代未聞の挑戦につながった。

#1
トヨタ・松下・日立を一代で超えた怪物経営者…“ヤマ師”太郎の栄光と忘却【アラビア石油を創った男】
裸一貫から一代でトヨタ・松下・日立を超える高収益企業を作った破格の傑物――。山下太郎は、若き日に札幌農学校(現北海道大学)で学び、初代校長クラークの「少年よ、大志を抱け!」という言葉を胸に刻み、開拓者精神を貫く人生を歩んだ。山下太郎の波乱万丈の生涯を描いたノンフィクション小説『ヤマ師』の印象的なシーンを取り上げ、彼の大胆な発想と行動力の核心に迫る。

予告
日本経済史「影の主役」、稀代の“ヤマ師” 山下太郎とは何者か?この男を歴史の中に埋もれさせてはならない!
裸一貫から一代でトヨタ・松下・日立を超える高収益企業を作った破格の傑物――。「ヤマ師太郎」「満州太郎」「アラビア太郎」と時代と共に名を変えながら、山下太郎は日本で初めて中東に油田を持つ「アラビア石油」という高収益企業を作り上げた。この男は、常に果敢な挑戦を続けた、まさに“ヤマ師(投機家)”だった。この連載では、山下太郎の波乱万丈の生涯を描いたノンフィクション小説『ヤマ師』の印象的なシーンを取り上げ、彼の大胆な発想と行動力の核心に迫る。

新日本製鉄会長・斎藤英四郎が1984年1月7日号のインタビュー記事で、公共投資に民間資金を活用することについて、国民が生み出した資金の使い方の違いにすぎず、採算性とリスク保証が不可欠であり、長期的視点での国土開発やインフラ整備の重要性を強調している。

終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)は日本の軍国主義と経済独占体制を根本から改めるために、財閥解体を命じた。これに基づき1946年に設置されたのが「持株会社整理委員会」だ。目的は、巨大財閥が経済を支配していた「持ち株会社」構造を解体し、公正な競争の促進を図ることだった。

1995年3月25日号の特集「日産危機の真相」の中で掲載された当時の日産自動車社長、辻義文(1928年2月6日~2007年2月11日)のインタビューである。「日産が20年間シェアを落とし続けてきた最大の原因は、成功経験にしろ失敗経験にしろそれを生かすことなく、同じ過ちを何度も繰り返してきたことだ」と辻はインタビュー内で反省している。

佐橋滋(1913年4月5日~1993年5月31日)は、昭和の通商産業省(現経済産業省)で事務次官を務めた名物官僚だ。1960年代の資本自由化の波に対し、強いナショナリズムの立場から警鐘を鳴らし続け、城山三郎の経済小説『官僚たちの夏』で主人公のモデルにもなった。

サンリオを創業し、2020年6月まで同社の社長を務めた辻信太郎(1927年12月7日~)が、2000年9月9日号の「週刊ダイヤモンド」で、米マイクロソフト創業者のビル・ゲイツから1990年代半ばにサンリオのオリジナルキャラクター「ハローキティ」のデジタル化権買収の提案を受けていたことを明かしている。

東武鉄道など数々の鉄道の創設・再建に携わり、一代で「根津財閥」を築き上げた実業家・根津嘉一郎。その後を継ぎ、1941年から53年にわたって社長職を務めた2代目嘉一郎が、戦後の東武鉄道の発展と根津美術館について語っている。

橋本敬之(1919年3月30日 - 1992年12月14日)は住友銀行常務から1973年にニッカウヰスキー副社長に転じ、その後4代目の社長を務めた。橋本をニッカに推薦したのは同じく住友銀行出身で朝日麦酒社長だった高橋吉隆(“ビール王”と呼ばれた高橋龍太郎の長男)といわれている。

「週刊ダイヤモンド」1982年1月9日号に「いまなぜ関西なのか――日本新展開のエネルギー 商人型社会の才覚」と題した座談会が掲載されている。出席者は経済評論家の内橋克人、滋賀大学教授の小倉栄一郎、作家の堺屋太一、サントリー社長の佐治敬三の4人だ。4人それぞれに際立ったバックグラウンドがあり、実際の経験や知見から繰り出される持論やエピソードが、どれも興味深い。

前回の大阪万博が開かれた1970年。高度経済成長の下で都市化が急速に進んでいる日本において、都市づくりは大きな課題でもあった。万博開催を直前に控えた「週刊ダイヤモンド」1970年1月19日号では、左藤が1985年に向けてデザイン中の新しい大阪について語っている。

第2次世界大戦後の日本を襲った激しいインフレを退治するためにGHQ(連合国軍総司令部)は経済安定計画「ドッジ・ライン」が実施した。当時の大蔵大臣は池田勇人である。「ダイヤモンド」1950年1月1日号で、その池田が新年度の予算策定と財政経済政策について大いに語っている。

「団塊の世代」の名付け親である堺屋太一が、団塊世代の定年退職ラッシュを控えた2005年の「週刊ダイヤモンド」で、高齢労働者の活用と日本経済の活性化についてインタビューに応えている。

1977年1月に田坂輝敬前社長の急逝に伴い、巨大企業の新日鉄(現日本製鉄)社長に就任したばかりの斎藤英四郎が、迅速・的確な経営判断を行うための上意下達、下意上達の組織づくりについて語っている。
