深澤 献

ダイヤモンド編集部論説委員

ふかさわ・けん/広島県出身。1989年ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」でソフトウェア、流通・小売り、通信・IT業界などの 担当記者を経て、2002年10月より副編集長。16年4月よりダイヤモンド・オンライン(DOL)編集長。17年4月よりDOL編集長との兼任で週刊ダイヤモンド編集長。19年4月よりデジタルメディア開発部長兼ダイヤモンド論説委員。2022年2月~24年2月まで株式会社TBMに転じた後、24年4月より週刊ダイヤモンド事業室編集委員。著書に「そごう 壊れた百貨店」「沸騰する中国」(いずれもダイヤモンド社刊・共著)など。趣味はマラソン。

終戦後、日本独立の年に加納久朗が説いた「日本人は日本を発見せよ」
深澤 献
1951年、日本がサンフランシスコ講和条約を目前に控え、占領から独立へと向かう節目に当たって、国際決済銀行副会長などを務めた銀行家で国際人でもあった加納久朗が、敗戦で富を失った日本が再び世界の一員となるための「精神の再建」を説いている。
終戦後、日本独立の年に加納久朗が説いた「日本人は日本を発見せよ」
#10
終戦で消えた6兆円、個人資産を未来に託した“ヤマ師”太郎、ゼロからの再出発【アラビア石油を創った男】
深澤 献
終戦直前、太郎は満州で得た7億5000万円(現代の6兆円超)もの巨額資産を「国家と未来のために使う」と決意。軍事支援や科学技術振興に私財を投じようとしたが、敗戦と政府の方針転換で全てが水泡に帰してしまう。だが、時代の激変の中でも「自分のすべきこと」を貫いた太郎の姿勢は、現代のリーダーにも自分の資産や力の使い方という問いを投げかけている。
終戦で消えた6兆円、個人資産を未来に託した“ヤマ師”太郎、ゼロからの再出発【アラビア石油を創った男】
#9
一切の妥協を許さない!“ヤマ師”太郎が満州で「カネの成る木」を手に入れた信頼の力【アラビア石油を創った男】
深澤 献
満鉄社員向け社宅建設という大仕事に、太郎は一流の技師・市田菊治郎と共に「質」に徹した家づくりで応えた。細部まで妥協を許さず、快適性と耐久性を追求した社宅は高い評価を受け、以後の発注を独占。継続的な成功へとつながる。チャンスは手を抜かず全力を尽くす者にこそ味方する。
一切の妥協を許さない!“ヤマ師”太郎が満州で「カネの成る木」を手に入れた信頼の力【アラビア石油を創った男】
経営の神髄は「人間集団の運営」にあり――“財界四天王”櫻田武と電電公社総裁・真藤恒の熱き対談
深澤 献
「週刊ダイヤモンド」1981年5月2・9日合併号に掲載された、元日清紡績社長で「財界四天王」の一人、櫻田武と、石川島播磨重工業(現IHI)社長から日本電信電話公社(現NTT)総裁に就任したばかりの真藤恒の対談。テーマは、電電公社の運営、公社民営論、日米経済摩擦、そして経営の本質にまで及んでいる。
経営の神髄は「人間集団の運営」にあり――“財界四天王”櫻田武と電電公社総裁・真藤恒の熱き対談
#8
損して得を取る!“ヤマ師”太郎は満鉄の契約打ち切りにも「とっさの大局観」で進路を拓く【アラビア石油を創った男】
深澤 献
満鉄と結んだ江蘇米の大型契約を一方的に打ち切られた太郎だが、目先の利益よりも信頼と長い縁を選び、潔く契約解除を受け入れた。その態度は満鉄との関係を深め、後に新たなビジネスチャンスを呼び込む結果につながっていく。「損して得を取る」とは、目の前の勝利を手放す勇気をもって、さらに大きな勝利をつかむこと。未来を見据えた太郎ならではの大局観だった。
損して得を取る!“ヤマ師”太郎は満鉄の契約打ち切りにも「とっさの大局観」で進路を拓く【アラビア石油を創った男】
#7
中国米密輸からの撤退もまた戦略…勝負の芽を二重三重に仕込む“ヤマ師”太郎の流儀【アラビア石油を創った男】
深澤 献
大正の米騒動の当時、太郎は政府公認の中国・江蘇米密輸計画に挑むも、上海総領事の強硬な反対で計画は頓挫した。しかし損失を最小限に抑える戦略を用意周到にめぐらせていた。そして現地で得た知見や人脈を糧に、即座に次のビジネスチャンスへと舵を切り替えていく。
中国米密輸からの撤退もまた戦略…勝負の芽を二重三重に仕込む“ヤマ師”太郎の流儀【アラビア石油を創った男】
国際派の論客・住友化学長谷川周重が訴えた“西欧的な”経済社会待望論
深澤 献
1967年10月ダイヤモンド臨時増刊の「日本の経営者は国際レベルか」という特集の中で、住友化学工業社長の長谷川周重が「“西欧的な”経済社会待望論」とのタイトルで、国際競争が激化する中、日本企業や経営者は従来の「甘え」や義理人情の発想を捨て、国際社会のルールにのっとった行動と正しい知識を身に付ける必要があるとの持論を述べている。
国際派の論客・住友化学長谷川周重が訴えた“西欧的な”経済社会待望論
#6
大正7年の米騒動で「政府公認のコメ密輸人」に…“ヤマ師”太郎、国を動かす【アラビア石油を創った男】
深澤 献
1918年、日本中を揺るがした「米騒動」の最中、太郎は「江蘇米の密輸」という前代未聞の策を、農商務大臣に堂々と提案する。そこには、国家の危機に際しての“無私の志”と、後の大事業にも通じる独自の人脈哲学「人間植林」の萌芽があった。
大正7年の米騒動で「政府公認のコメ密輸人」に…“ヤマ師”太郎、国を動かす【アラビア石油を創った男】
#5
「人間植林」という人脈構築術、誠意で信頼を積み立てる“ヤマ師”太郎の長期戦略【アラビア石油を創った男】
深澤 献
太郎は、人脈を「つくる」のではなく「育てる」ことを信条とし、誠実さと地道な努力で信頼を積み重ねてきた。札幌農学校で学んだ「良い果実は良い種子から生まれる」という教訓を「人間植林」と名付け、日々の気配りと誠実な行動で築いた人脈を、後の事業成功の礎としていった。
「人間植林」という人脈構築術、誠意で信頼を積み立てる“ヤマ師”太郎の長期戦略【アラビア石油を創った男】
「戦後復興の鍵は“化学”にあり」中野友禮・日本曹達創業者、終戦直後の訴え
深澤 献
日本曹達を創業した化学者であり実業家である中野友禮が、終戦直後の「ダイヤモンド」の復刊第1号で、経済と社会が瓦解状態にあった日本の復興に必要な事業とは何かという問いに正面から答えている。
「戦後復興の鍵は“化学”にあり」中野友禮・日本曹達創業者、終戦直後の訴え
#4
革命下のロシアで「鮭缶」に全財産賭けた大勝負…“ヤマ師”太郎が掴んだ「人を信じ、頼る力」【アラビア石油を創った男】
深澤 献
1917年、ロシア革命の混乱下でウラジオストクに滞留する鮭缶に目をつけた太郎は、有り金をはたき大勝負に挑む。政情不安や取引無効の危機にも、太郎は人脈と機転を駆使し、難局を突破。リスクを恐れず「使いこなす」姿勢と、人を信じて託す胆力が、勝負師としての真骨頂だった。
革命下のロシアで「鮭缶」に全財産賭けた大勝負…“ヤマ師”太郎が掴んだ「人を信じ、頼る力」【アラビア石油を創った男】
#3
エジソンも家康もヤマ師だ!人生を「勝負の大きさ」で測った“ヤマ師”太郎の原点【アラビア石油を創った男】
深澤 献
父親との衝突を経て、太郎は「人生とは勝負の大きさ」と語り、「ヤマ師」と呼ばれることを誇りとするようになる。「ヤマ師で結構!」と父親に言い放った一言には、世間の評価や既成の枠に縛られず、自らの信じる道を突き進む覚悟と誇りが込められていた。
エジソンも家康もヤマ師だ!人生を「勝負の大きさ」で測った“ヤマ師”太郎の原点【アラビア石油を創った男】
大丸・東京駅出店という悲願を果たした北沢敬二郎社長「大丸は江戸の老舗」
深澤 献
関西を地盤とする百貨店、大丸が東京駅に進出したのは1954年10月20日で、東京駅八重洲口の駅ビルに誕生した。1954年12月3日付の「ダイヤモンド」臨時増刊号で、当時の社長である北沢敬二郎が、東京駅進出に関して手記を寄せている。
大丸・東京駅出店という悲願を果たした北沢敬二郎社長「大丸は江戸の老舗」
#2
戦争を防ぐために何ができるか?若き日の“ヤマ師”太郎の葛藤と答え【アラビア石油を創った男】
深澤 献
戦争を起こさせないために、私たちは何をすべきなのか――。かつて札幌農学校の学生だった太郎は、内村鑑三の「非戦論」に深く共鳴しつつも、それを貫く難しさにも真正面から向き合っていた。その思いは70歳を目前にして再び立ち上がり、中東での石油利権獲得という前代未聞の挑戦につながった。
戦争を防ぐために何ができるか?若き日の“ヤマ師”太郎の葛藤と答え【アラビア石油を創った男】
#1
トヨタ・松下・日立を一代で超えた怪物経営者…“ヤマ師”太郎の栄光と忘却【アラビア石油を創った男】
深澤 献
裸一貫から一代でトヨタ・松下・日立を超える高収益企業を作った破格の傑物――。山下太郎は、若き日に札幌農学校(現北海道大学)で学び、初代校長クラークの「少年よ、大志を抱け!」という言葉を胸に刻み、開拓者精神を貫く人生を歩んだ。山下太郎の波乱万丈の生涯を描いたノンフィクション小説『ヤマ師』の印象的なシーンを取り上げ、彼の大胆な発想と行動力の核心に迫る。
トヨタ・松下・日立を一代で超えた怪物経営者…“ヤマ師”太郎の栄光と忘却【アラビア石油を創った男】
予告
日本経済史「影の主役」、稀代の“ヤマ師” 山下太郎とは何者か?この男を歴史の中に埋もれさせてはならない!
深澤 献
裸一貫から一代でトヨタ・松下・日立を超える高収益企業を作った破格の傑物――。「ヤマ師太郎」「満州太郎」「アラビア太郎」と時代と共に名を変えながら、山下太郎は日本で初めて中東に油田を持つ「アラビア石油」という高収益企業を作り上げた。この男は、常に果敢な挑戦を続けた、まさに“ヤマ師(投機家)”だった。この連載では、山下太郎の波乱万丈の生涯を描いたノンフィクション小説『ヤマ師』の印象的なシーンを取り上げ、彼の大胆な発想と行動力の核心に迫る。
日本経済史「影の主役」、稀代の“ヤマ師” 山下太郎とは何者か?この男を歴史の中に埋もれさせてはならない!
新日本製鉄会長・斎藤英四郎が84年に語った「公共投資に民間資金を活用する意義」
深澤 献
新日本製鉄会長・斎藤英四郎が1984年1月7日号のインタビュー記事で、公共投資に民間資金を活用することについて、国民が生み出した資金の使い方の違いにすぎず、採算性とリスク保証が不可欠であり、長期的視点での国土開発やインフラ整備の重要性を強調している。
新日本製鉄会長・斎藤英四郎が84年に語った「公共投資に民間資金を活用する意義」
戦後の「財閥解体」を取り仕切った笹山忠夫の回想「解体が最小限で済んだ理由」
深澤 献
終戦直後、連合国軍総司令部(GHQ)は日本の軍国主義と経済独占体制を根本から改めるために、財閥解体を命じた。これに基づき1946年に設置されたのが「持株会社整理委員会」だ。目的は、巨大財閥が経済を支配していた「持ち株会社」構造を解体し、公正な競争の促進を図ることだった。
戦後の「財閥解体」を取り仕切った笹山忠夫の回想「解体が最小限で済んだ理由」
「成功経験も失敗経験も生かせない」――30年前に日産・辻義文が嘆いた今なお変わらない体質
深澤 献
1995年3月25日号の特集「日産危機の真相」の中で掲載された当時の日産自動車社長、辻義文(1928年2月6日~2007年2月11日)のインタビューである。「日産が20年間シェアを落とし続けてきた最大の原因は、成功経験にしろ失敗経験にしろそれを生かすことなく、同じ過ちを何度も繰り返してきたことだ」と辻はインタビュー内で反省している。
「成功経験も失敗経験も生かせない」――30年前に日産・辻義文が嘆いた今なお変わらない体質
日産・トヨタが外資に取られたら…「ナショナリズムなき自由化」を危惧した通産官僚・佐橋滋、60年前の警鐘
深澤 献
佐橋滋(1913年4月5日~1993年5月31日)は、昭和の通商産業省(現経済産業省)で事務次官を務めた名物官僚だ。1960年代の資本自由化の波に対し、強いナショナリズムの立場から警鐘を鳴らし続け、城山三郎の経済小説『官僚たちの夏』で主人公のモデルにもなった。
日産・トヨタが外資に取られたら…「ナショナリズムなき自由化」を危惧した通産官僚・佐橋滋、60年前の警鐘
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