『トイ・ストーリー』『モンスターズ・インク』『ニモ』『カーズ』など独創的なアニメーションを次々ヒットさせ、世界随一のクリエイティブな企業としても多くの人々が憧れる、ピクサー・アニメーション・スタジオ。その共同創業者であるエド・キャットムル氏の著書『ピクサー流 創造するちから』第2章より、そもそもピクサーが生み出された時の誕生秘話を本連載で紹介する。今回は、研究職出身だったこともあり29歳まで部下を持ったこともなかったキャットムル氏が、会社の立ち上げに際して実践を通じて「採用の極意」を学んでいく過程のエピソードである。

若かった私には何もわからなかった
よいマネジメントとは、どういうものだろうか。まだ若かった私には何もわからなかったが、いくつかの仕事を通してそれを突き止めるべく、歩き始めようとしていた。
それぞれにタイプのまったく異なる因襲打破の3人の下で働くことで、リーダーシップの突貫授業を受けることになる。次の10年間は、マネジャーがすべきこととすべきでないこと、ビジョンと思い違い、自信と慢心、創造性を発揮させるものと抑えてしまうものについて、大いに学ぶことになる。経験を重ねるうちに、自分を混乱させつつも、夢中になるような疑問がわくようになった。40年経った今でも、自問は続いている。
私の最初の上司、アレックス・シュアーの話から始めよう。1974年のあの日、何の前触れもなく電話してきて、私の航空券を予約すると言い、まちがいに気づいた途端に受話器を叩きつけたあの秘書のボスだ。
数分後、再び電話が鳴り、出てみると、別の声が聞こえてきた。今度は男性で、アレックスの下で働いていると言い、説明をしてくれた。アレックスは、ロングアイランドのノースショアで研究所を開く準備をしている。その使命は、コンピュータをアニメーション開発のプロセスに導入すること。お金は問題ない、そう保証してくれた。アレックスは百万長者なのだから。その研究所の責任者を探している。詳しい話を聞くつもりはないか、と。
それから何週間もしないうちに、私はニューヨーク工科大学(NYIT)にできた自分の新しいオフィスに引っ越していた。
第二のウォルト・ディズニーになりたいんじゃない!
以前は大学の学長だったアレックスには、コンピュータ・サイエンス分野の経験は皆無だった。当時、それは珍しいことではなかったが、アレックス自身は、まちがいなく珍しい人物だった。彼は、コンピュータがすぐに人間に取って代わると無邪気に信じ、その先鞭をつけるという考えにワクワクしていた(それは当時よくあった誤解で、我々にはそのまちがいはわかっていたが、その仕事に熱心にお金を出してくれる彼の寛容さは有り難かった)。
彼は、空威張りと脈絡のなさと語呂合わせを混ぜて、いかれ帽子屋(不思議な国のアリスのキャラクター)張りの訛りをつけたような独特な喋り方をした。それを「ワードサラダ」(コンピュータによって自動生成された意味をなさない文章。「我々の構想によって、時間は短縮され、やがて消し去られるだろう」などと言っていた)と呼んだ同僚もいた。一緒に仕事をしていたが、彼の言いたいことが理解できないことがよくあった。
アレックスには、密かな(とは言い難い)野望があった。彼は毎日のように、自分は第二のウォルト・ディズニーになりたいんじゃない、と言っていたが、そうなりたいと言っているようにしか聞こえなかった。私が着任したとき、彼は、『チューバ吹きのタビー』というタイトルの手描きアニメーション映画の監督を務めていた。それは、とても日の目を見るような代物ではなかった。NYITには、一人として映画製作を勉強した人や、ストーリーづくりの感性を持った人はいなかった。公開されたその映画は、跡形もなく消え去った。
自分の能力を勘違いしていたアレックスだったが、先見の明はあった。コンピュータがいつかアニメーションにおいて演じるだろう役割について、信じられないくらい予見しており、そのビジョンを推し進めるために莫大な私財を注ぎ込むつもりでいた。絵に描いた餅と揶揄された手描き芸術とテクノロジーとの融合に対する彼の揺るぎない思い入れは、その後の数多くの革新を可能にした。
自分以上に頭の切れる人材を雇うメリット
アレックスは私を迎え入れると、メンバー集めを私に一任した。そこが彼のすごいところだ。自分が雇った人間を信頼しきっていた。私はこれをすばらしいと思い、のちに自分でも実践しようとした。
私が最初に面談した人の中に、アルヴィ・レイ・スミスがいた。テキサス出身、コンピュータ・サイエンスで博士号を取得し、ニューヨーク大学とカリフォルニア大学バークレー校で教鞭を執り、ゼロックスのかの有名なパロアルト研究所(PARC)で働いていたという輝かしい履歴を持つカリスマだ。
私は複雑な気持ちでアルヴィに会った。正直、私より彼のほうがこの研究所の責任者にふさわしいように思えたからだ。今でもあのときの落ち着かない気分を覚えている。いつかこの男に仕事を奪われるかもしれないという脅威に、ズキッと痛みが走った。それでも構わず彼を雇った。
アルヴィを雇ったことを自信の表れととる人もいたかもしれないが、4年間研究に没頭し、一度も部下を持ったことがなく、ましてや人を雇ったことも管理したこともない29歳の若輩者には、自信のかけらもなかった。
それでもNYITは私が大学院に入ってやりたかったことを試せる場所だった。それを確実に成功させるには、最も頭の切れるメンバーを揃えなければならない。最も頭の切れるメンバーを引きつけるには、自分自身の不安感を追いやる必要があった。ARPAの教訓が頭にこびりついていた。難問にぶち当たったときは賢くなれ。だからそのとおりにした。
アルヴィは、私の最も親しい友人で、最も信頼できる仕事仲間の一人になった。そしてそれ以来、私はできるだけ自分より頭のいい人を雇おうと決めている。並外れた人材を雇えば、革新を起こし、卓越し、会社――ひいてはそのリーダー――を優秀に見せてくれる。
しかしそれだけでなく、後になって初めて気づいた別の見返りもあった。アルヴィを雇ったことで、マネジャーとしての私が変わった。自分の不安感を無視することによって、不安には根拠がないことに気づいた。より安全に見える道を選んで、好ましくない結果を得る人たちを見てきた。私はアルヴィを雇ったことでリスクを負ったが、そのおかげで、聡明で献身的なチームメイトという、この上ない見返りを手にした。
大学院にいたころは、どうしたらユタ大学のあの独特の環境をつくることができるのかわからなかった。それが今、一瞬にして見えた。脅威に感じても、つねによりよいほうに賭けてみる、ということだったのだ。







