量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。今回は私たちの生活を守る「暗号」について特別な書き下ろしをお届けする。
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私たちは本当に安全なのか
私たちは日々、無意識のうちに暗号に守られて生活している。
ネットショッピングでクレジットカードを入力したり、銀行アプリで残高を確認したり、会社の機密データをクラウドで共有したり。
これらはすべて暗号技術によって安全が保たれている。
暗号は現代社会の「空気」のような存在だが、その安全性は永遠に保証されるわけではない。
現在広く使われている暗号方式の代表がRSA暗号だ。
これは「大きな数を素因数分解するのが難しい」という数学的性質を利用したものだ。
例えば2048ビットという桁外れに大きな数を素因数分解するには、従来のコンピュータでは天文学的な時間がかかる。
そのため、現実的にはほぼ解読できないと考えられ、長年インターネットの安全を支えてきた。
量子コンピュータが全ての暗号を解読する?
ところが、この前提を根底から揺るがす存在がある。
それが量子コンピュータだ。
量子力学の原理に基づいたこの新しい計算機は、従来とはまったく異なる方法で計算を行う。
その結果、特定の問題を劇的に速く解けてしまう。
実際、2019年にGoogleが「量子優越性」を達成したと発表した際には、「ついに暗号が破られてしまうのではないか」という誤解が広がり、暗号資産ビットコインが一時的に急落するという騒ぎもあった。
もちろん当時の量子コンピュータは暗号を解読できるほどの性能ではなかったが、社会が量子技術のインパクトをどれほど強く意識しているかを示す象徴的な出来事だったと言える。
今は安全だが……?
とはいえ、誤解してはいけない。
今すぐRSAが破られるわけではない。
現時点で主流の2048ビットのRSA暗号を解読できる規模の量子コンピュータは、世界のどこにも存在しない。
実際、必要とされる量子ビット数はこれまで非常に大きい。
2012年には「1億量子ビット」が必要と見積もられていた。
しかし近年、量子アルゴリズムの改良が急速に進み、2019年には「2000万量子ビット」、そして2025年には「100万量子ビットで可能」という水準まで下がってきた。
現在実現している規模が数百量子ビットであることを考えると技術的ハードルは依然として高いものの、未来永劫安全とは言い切れない段階に入っている。
耐量子暗号の発明
さらに深刻なのは、「過去の通信を盗んで保存しておき、量子コンピュータが完成した未来に解読する」という攻撃ができてしまう点だ。
つまり、今送っている情報が、未来のコンピュータで暴かれる可能性がある。
機密情報や個人データを長期的に守るには、「これから30年は安全な暗号」が必要だ。
こうした危機感から、アメリカを中心に世界はすでに動き始めている。
量子コンピュータが登場しても安全な暗号方式、いわゆる耐量子暗号(PQC:Post-Quantum Cryptography)の標準化が急速に進んでいる。
しかし、耐量子暗号にも限界がある。
「量子コンピュータで解読できないことを数学的に証明する」ことは、原理的に不可能なのだ。
日本は最先端を進んでいる
究極的に安全を求めるなら、物理法則そのものに守られた量子暗号が重要になる。
量子力学には「量子状態を観測すると壊れる」という特性がある。
この性質を通信に応用した量子暗号は、盗み見しようとした瞬間に必ず痕跡が残るため、原理的に盗聴が不可能だ。
日本はこの分野で世界トップレベルの研究と社会実装を進めてきた国である。
最近では、東京から神戸まで約600kmに及ぶ大規模な量子暗号通信網を2026年度末までに整備し、2027年度に運用開始するというニュースも発表された。
量子コンピュータ時代において、日本発の量子技術が私たちの情報社会を守る力になるかもしれない。
(本稿は『教養としての量子コンピュータ』の著者が特別に書き下ろしたものです。)





