量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。今回はブラックホールと量子コンピュータについて特別な書き下ろしをお届けする(ダイヤモンド社書籍編集局)。
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ご冗談でしょう、ファインマンさん
量子コンピュータの起源を語るとき、避けて通れない人物がいる。
素粒子物理学の研究でノーベル賞を受賞したリチャード・ファインマンである。
『ご冗談でしょう、ファインマンさん』は、多くの理系の学生を研究の世界へ誘った名著である。
私自身も高校時代に読み、研究者を志すきっかけとなった。
ファインマンは電子や光などが複雑に相互作用する物理系、量子電磁気学の構築に大きく貢献し、シュウィンガー、朝永とともにノーベル賞を受賞した。
その他、オリジナリティの高い研究成果が多く、量子力学のもう1つの定式化である「経路積分法」や、複雑な課程を計算するためのテクニックである「ファインマンダイアグラム」を生み出したことで知られる。
ファインマンダイアグラム(Photo: Adobe Stock)
ファインマンダイアグラムは、素粒子同士の相互作用を図として整理し、複雑な計算を可能にした革新的手法である。
しかし、エネルギーが高くなり、また粒子数が増えると図のパターンが指数関数的に増えてしまう。
ファインマンは早くから、自然界を忠実に再現しようとすると古典計算に限界が現れることを見抜いていたのだろう。
ファインマン型量子コンピュータ
1981年、ファインマンは「量子力学そのものを使って自然界をシミュレーションする機械」というアイデアを提唱する。
これが今日の量子コンピュータの原型である。
ただし、その姿は現在の量子ビットを精密に操作する装置とは大きく異なる。
当時、量子系はあくまで観察の対象であり、スイッチのオンオフや電圧制御で自在に操れるものではなかった。
単一原子を捕まえて操作する技術すら未発達だった。
そこで1985年にファインマンが考えたのは、「操作しない量子コンピュータ」である。
計算したいプログラムに合わせて、量子系の相互作用をあらかじめ調整しておく。
あとは物理法則に委ねて自然に時間発展させれば、望む計算が進むという発想だ。
いわば、ビリヤード台の上にプログラムどおりにボールを並べ、最初の一打を与えたあとは転がり、衝突する過程を見守るだけで計算が完了する、というイメージである。
このファインマン型の量子コンピュータは、今日の主流にはなっていない。
現代の量子技術では量子ビットを直接時事刻々と制御する方が、はるかに実装が容易であり、「あらかじめ相互作用をすべて作り込む」方式は現実的ではないためだ。
しかし、このモデルは依然として、量子コンピュータで解ける問題・解けない問題を分類する理論枠組みの基礎になっている。
遊び心と好奇心
最後に、ファインマンらしいエピソードで締めたい。
彼はどんな難題も「まず自分で試す」姿勢で向き合った。
研究所の金庫破りに没頭して実際に開けてしまったこともあれば、学会にボンゴを持ち込み夜通し演奏したこともあるそうだ。
世界最高峰の物理学者でありながら、常に遊び心と好奇心に満ちていた。
量子コンピュータの原点にあるのは、まさにその好奇心である。
そして、ファインマンが「簡単ではないが素晴らしい課題」といった量子コンピュータは40年の時を経て実現しつつある。
ファインマンが現代にいたら、きっと量子コンピュータの最も面白い使い方を見つけているに違いない。
(本稿は『教養としての量子コンピュータ』の著者が特別に書き下ろしたものです。)





