それだけではなかった。世界各国からアーティストが神山を訪れるようになり、民間べースでの国際交流が盛んな地域となっていた。そして、いつしか「せかいのかみやま」と呼ばれるまでになっていた。

 こうした四国の過疎の町の賑わいぶりが知られるようになり、耳目を引くようになったという次第である。

民間主導、ソフト中心、明確な戦略
神山町の地域活性化策に見る3つの独自性

 神山町で進められてきた地域活性化策には、3つの独自性があった。1つは、行政ではなく、民間主導であること。2つめが、ハードではなく、ソフト中心の取り組みであること。そして、3つめが、「創造的過疎」(詳細は後述)を掲げるといった明確なビジョンと戦略に基づく点だ。

「神山町を面白い場所にしたいと思って、ずっと活動してきました。地域づくりのポイントは、(地元に)何があるかではなく、どんな人が集まるかだと思います」

 こう語るのは、神山町で様々なまちづくり事業を展開しているNPO法人「グリーンバレー」の大南信也・理事長。神山町のキーマンで、「創造的過疎」の提唱者である。

 大南さんは神山町で建設会社を経営する実業家。商工会青年部のメンバーとしてまちおこし活動に熱心に取り組んだが、大きな成果をあげられずにいた。それでも1992年に国際交流協会を立ち上げ、地域活動を続けた。

 大きな転機が1997年にやってきた。徳島県が神山町に国際文化村を創る構想を公表したのである。

 大南さんらは県の構想を新聞記事で知り、こう考えた。これからの時代は国や県が造った施設を住民自身が管理、運営することになるだろう。最初から自分たちの思いを込めた国際文化村を創っておかなければ、有効に使えない。どんなものが欲しいのか住民側から提案するべきだ。さらに、「入れもの」よりも「入れるもの」が重要で、自分たちがソフト事業を立ち上げていくことで、最適化された施設(ハード)が見えてくるのではないかと。