このようなことは病気とは関係なく誰にも起こりうる。何をしたかをすぐに忘れることはなくても、今し方思いついたことを忘れてしまうことはある。一度忘れたことをまた思い出せることはあるが、思い出すのはなかなか大変である。

言語化をしなければ
自分の考えも深まらない

 アウレリウスは次のように書いている。

「すべてのものは儚い。記憶するものも、記憶されるものも」(『自省録』4・35)

「すぐにお前はすべてを忘れるだろう。そして、すぐにお前のすべても忘れられるだろう」(前掲書、7・21)

 後世の我々にとって幸いなことに、このアウレリウスの予言は外れた。忘れられるどころか多くの人の記憶に刻まれた。

 考えたことがもしも語られなかったり、書かれなかったりしたら、誰とも共有されず、誰にも伝わらない。

 釈迦は菩提樹の下に座して悟りを開いた。しかし、自分が悟ったことはあまりに深く微妙なので、それを説いても理解されず、誤解し教えを誤用する人も現れるだろう。それなら、このまま沈黙を守り、直ちに涅槃に入るに如くはないと考えた。

 しかし、ためらう釈迦は弟子たちに再三再四説得されて説法した。だからこそ、仏陀の教えは今日まで伝えられ、その教えによって多くの人が救われたのである。もしも誰にも語らなかったら、釈迦の教えは釈迦自身の心の中に留まったままだったであろう。

 問題は、釈迦が悟ったことが正しく言語化されたか、言語化された教えが正しく理解されたかである。

 釈迦に限らず、人が考えていることは他の誰にも正しくは理解されない。自分でも理解していないかもしれない。しかし、言語化されることで他者と共有されたら、その考えは他者を触発する。他者と対話し、読書によって著者と対話することで、自分の考えを深めることができるのである。