気候温暖化など地球環境問題によって、経済成長を目的とする「資本主義」の限界が指摘され、批判が高まっている。AIやテクノロジーが社会に与える影響を研究するイギリスの社会学者ダニエル・サスキンドは、これを「経済成長のジレンマ」と呼ぶ。「成長とは、人類が成し遂げてきたあまたの偉大なる勝利と結びついている。しかし他方においては、成長とは、今日の僕たちが直面するあまたの甚大なる問題と結びついている」のだ。
Photo/Nijieimu / PIXTA(ピクスタ)
この難問に直面して二つの主張が対立しており、いずれも大きな影響力をもっている。
ひとつは「加速主義」で、科学の進歩を「加速」させることで、テクノロジーのパワーによって人類のすべての障害(老化や死さえも)が乗り越えられるとする。左派(レフト)のジャーナリスト、アーロン・バスターニはエネルギーや資源がタダになる「潤沢な未来」を想像し、そこではもはや資本主義は不要になり、「完全自動のラクジュアリーコミュニズム(FALC)」という理想の共産主義社会が実現すると論じた。
それに対して、やはり左派に属する経済人類学者ジェイソン・ヒッケルは、テクノロジーがなにもかも解決するという「グリーン成長」は幻想でしかなく、あくなき経済成長を求める資本主義を減速・放棄する「脱成長」以外に人類が生き延びる道はないと主張した。
【参考記事】
●テクノロジーによって資本主義は乗り越えられ「潤沢な共産主義」が実現するのか?あるいは「脱成長」のアニミズム的な定常経済によってゆたかになれるのか?
ダニエル・サスキンドはこの両極から距離を置き、中立的な立場から、『GROWTH 「脱」でも「親」でもない新成長論』(上原裕美子訳/みすず書房)において、より現実的な「成長戦略」を提案している。
『GROWTH(成長)』というタイトルは「脱成長(degrowth)」へのアンチテーゼ
サスキンドが自身の著書に『GROWTH(成長)』というタイトルをつけたのは、それが「脱成長(degrowth)」へのアンチテーゼだからだ。脱成長とは、「成長を目指すことをすっぱりやめ、意図的に低成長を、あるいは成長減退を追求していくアプローチ」をいう。
だがサスキンドは、脱成長論がすべて間違っているとはいわない。そればかりか、脱成長は経済成長の限界について重要な問題を提起したとして、次のように書く。
この(脱成長)運動は、偏りはあるとはいえ、それでもいくつか重要な思想やアイディアを含んでいる。(略)(そうした洞察のなかで)何より大きいのは、この運動が僕たちを不都合な真実、すなわち経済成長は何らかのコストを間違いなく伴うという事実と、強制的に対峙させることだ。脱成長批判派の多くはその事実を受け入れられないが、そんなふうに向き合えないことが原因で、今の僕たちは成長がもたらす代償の解決に至っていない。実際のところ、脱成長派が不都合かつ避けがたい結論に大胆にも到達しているからこそ、往々にして彼らの主張が忌避されるのではないだろうか――何かはあきらめなければならない、という結論だ。
ところが脱成長論は、この「正しさ」から奇妙な袋小路にはまり込んでいく。「脱成長派が解決策を提示する必要性を感じているということ自体が、奇異に思える」とサスキンドはいう。「有限の地球で無限の成長などあり得ない」のなら、経済成長は好ましくないだけでなく、実現不可能なのだから、経済活動など好きにさせておいて、自滅するのを待てばいいだけだ。
だがこの陰鬱な終末論では大衆を動員する政治運動にならないため、脱成長をなんらかのよいものに結びつける必要が生じた。脱成長とは、定義上「経済活動を縮小すること」なのにもかかわらず、それによって不景気に陥ることがないばかりか、わたしたちはさらに「ゆたか」になるというのだ。
脱成長論の代表的な論者であるジェイソン・ヒッケルも、『資本主義の次に来る世界』(野中香方子訳/東洋経済新報社)で、クリーンエネルギー、公的医療、公共事業、環境再生型農業などの「成長させるべき部門」と、化石燃料、プライベートジェット、武器、SUV車など「縮小すべき部門」を区別し、必要な労働を公平に分配するならば、生産部門を縮小しても完全雇用を維持できると述べている。ひとびとに提供されるのは「コミュニティが真に必要とし社会のためになる仕事」で、「介護、エッセンシャル・サービス、クリーンエネルギーのインフラ建設、地産池消の農業、劣化した生態系の再生」などだという。
だがサスキンドは、こうした脱成長派の「計画的に成長をやめればゆたかになれる」説を詭弁(きべん)だとして一蹴する。経済活動を縮小すれば、それによって引き起こされるのは不況だ。
「脱成長は意図的な不況を求めるのではない」と主張する脱成長派は、自分たちは「(資源やエネルギーの)投入を減らすこと」を望んでいるのだという。だが投入を減らせば、産出物も減って経済は停滞するだろう。
もちろん、投入を減らしつつより多く生産することは十分可能だ。これが「生産性を高める」という意味だが、脱成長派はこの「グリーン成長」のシナリオを夢物語だと断固として拒否する。サスキンドは、脱成長派の矛盾を次のように説明する。
彼ら(脱成長派)がこの戦いを避ける理由は理解できる。少ないものから多くを得ていくというグリーン成長のビジョンのほうが、少ないものから少なく得ていくという脱成長というビジョンよりも本質的に魅力的だからだ。だが、グリーン成長を否定することで、脱成長運動は墓穴を掘っている。経済に対する「 エネルギーとマテリアルのスループット」を少なくすることを望みつつ、少ない投入でより多く産出するというシナリオを否定するのだとすれば、その経済の産出は必然的に縮小していく。志と目的が何であれ、求めているのはまさしく意図的な不況以外の何物でもない。
脱成長派は、「彼ら自身の言い方で、不況を起こせと要求している」のだ。
「脱成長運動は、『あらゆる代償を払ってでも経済成長を目指せ』を『あらゆる代償を払ってでも成長を止めろ』に置き換えているだけ」
「エレファントカーブ」で知られる経済学者のブランコ・ミラノヴィッチは、「脱成長が世界GDPを現時点で凍結させつつ、同時に今まさに極度の貧困状態にある8億人をそのまま放置することは許容できないと考えるのだとしたら、この8億人を支える充分な所得を確保する手段として、残る71億人――「事実上、西側人口の全員」を含む――の所得を削るしか道はない」と指摘した。
経済成長を強引に止めれば、そのつけを誰かが払うしかない。この「不都合な事実」を無視して、「経済成長しなくても、ゆたかな国のひとたちが現在のゆたかさを維持しつつ、グローバルサウスの貧しいひとたちがゆたかさを獲得できる」とするところに、脱成長論の欺瞞がある。実際は、「(脱成長は)人類の大半に物質的貧困を強いるだけでなく、人類の健康を悪化させ、無知と迷信を広げ、それに関連したさまざまな不運を甚大にもたらす」ことになる。
脱成長派のもっとも苛立たしい特徴の一つは「想像力の欠如」だとして、サスキンドは次のように辛らつに書く。
彼ら(脱成長派)は奇妙なほどコンサバな目で未来を見ている。これまでたまたま続いてきただけのなじみあるそこそこの世界に喜んで甘んじ、なじみはないが比類なき可能性のほうへ手を伸ばしてみようともせず、現状の経済的采配のもと永遠にぐずぐずと生きることを受け入れようとしている。
世界を今よりももっと、ずっとよくしていきたいという見込みのために、人は行進し、革命を起こし、その希望のために死んできた――ところが今、未来を新たに想像していくための戦いを、脱成長運動は放棄したがっているように見える。
脱成長を推進するなら、活動家たちは「貧しい者にずっと貧しくいろと求めるか、金持ちに今より貧しくなってずっとそのままでいろと求めるか」いずれかを選択しなくてはならない。だがこのような「政治的自殺」を、民主的な制度で達成できると考えるのはバカげている。こうして脱成長論は、必然的に「民主主義の放棄」に行きつくとサスキンドはいう。
こんなことになるのは、未来になにが実現しうるかを想像することも、政治的にどんなことが達成可能かを現実的に考えることも、どちらの義務も脱成長派が怠っているからだ。
「脱成長運動は、今日の学問および実社会の一部で広まっている経済的妄信――あらゆる代償を払ってでも経済成長を目指せ――を、ただ別の形の妄信――あらゆる代償を払ってでも成長を止めろ――に置き換えているだけ」なのだ。







