今回は、「わたしたちはいまの社会を正しく理解できているのだろうか」について、最近思うところを述べてみたい。

 私がこのことを考えるようになったのは、スウェーデンの経済学者ダニエル・ヴァルデンストロムの『資産格差の経済史 持ち家と年金が平等を生んだ』(立木勝訳/みすず書房)を読んだからで、これについてはすでに書いた。


【参考記事】
●トマ・ピケティの『21世紀の資本』で有名になった「経済格差が拡大している」は嘘?「過去1世紀のあいだに、西欧諸国の人びとは以前よりずっと豊かに、平等になってきた」のか?

 ヴァルデンストロムは、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、スウェーデンの富の分布をデータに基づいて詳細に検証したうえで、すくなくとも西欧では経済格差は拡大しているのではなく、過去1世紀のあいだ一貫して縮小しているとして、トマ・ピケティが『21世紀の資本』で主張したような「(格差拡大の)古いナラティブ」を否定している。

 この指摘が大きな意味をもつのは、格差が拡大しているのか、縮小しているのかで、政治や社会についての議論が百八十度変わってしまうからだ。欧米諸国や日本も含め、ほぼすべての政治的主張は格差拡大を前提としている。しかし、そもそもこの事実が存在しないとしたら、これまでの議論はすべて無意味になってしまうだろう。これは決定的に重要なので、経済学者にはどちらが正しいのか、ぜひ検証してほしい。

「格差拡大」は本当か?日本が直面するのは“老人まんなか社会”だPhoto : gugugu / PIXTA(ピクスタ)

「日本の現実」は、半数の世帯が所得250万円以下

 ヴァルデンストロムは格差が縮小している理由を、中流層がマイホームの取得を通じて不動産市場に、(iDeCoや NISAのような)税制優遇のある私的年金制度・投資制度によって株式市場にアクセスしやすくなったからだと述べている。日本でも100年単位で見れば同様のことは起きているだろうが、よくいわれるように近年は格差が拡大しているのだろうか。

 それを教えてくれるのが、厚生労働省がおよそ3年に1回行なっている「所得再分配調査報告書」で、最新のものは令和5年(2023年)版になる。ここには日本社会を理解するうえで興味深いデータがたくさんあるので、すこし詳しく紹介してみたい。

 まず目を引くのは、前回調査(2021年)に比べて、世帯単位で見た(再分配前の)当初所得が大幅に下がっていることだ。2年前の世帯所得は423.4万円で、それが384.8万円へと38万6000円(9.1%)も減っている。

 だがこれは、にわかには信じがたい。日本経済はデフレから「脱却」したことで物価が上昇し、給与の引き上げがそれに追いつかず、実質賃金が3年連続のマイナスになっている。これが「生活がどんどん苦しくなる」という怨嗟(えんさ)の声を生んでいるのだが、労働者の名目所得そのものは賃上げによって増えているはずだ。――実質賃金は、名目賃金(給与明細の金額)から物価の影響を除いた「ほんとうの(実質的な)購買力」のこと。

 ところが「所得再分配調査報告書」では、実質所得ではなく名目の世帯所得が、わずか2年間で9%以上も減ったことになっている。なぜこんなことになるのか。

「報告書」にはその説明はないが、理由は高齢化によって労働市場から離脱する世帯が増えているからだろう。この調査の「所得」には年金は含まれないので、退職して家計が年金のみに依存するようになると再分配前の世帯所得はゼロになる。その結果、賃上げにかかわらず日本全体の世帯所得は自然に減っていくのだ。

 では、世帯単位の所得の分布はどうなっているのだろうか。これは表に示したほうがわかりやすいだろう。

所得階級別の世帯分布
世帯所得 構成比
50万円未満 30.4%
50〜100 5.8%
100〜150 5.6%
150〜200 4.8%
200〜250 4.7%
250〜300 4.3%
300〜350 3.5%
350〜400 3.7%
400〜450 3.5%
450〜500 3.1%
500〜550 3.5%
550〜600 2.3%
600〜650 2.3%
650〜700 2.8%
700〜750 2.1%
750〜800 1.7%
800〜850 1.7%
850〜900 1.7%
900〜950 1.6%
950〜1,000 1.4%
1,000万円以上 9.6%
出典:「所得再分配調査報告書(令和5年)」より作成


 これを見ればわかるように、日本では年間所得50万円未満の世帯が30.4%、およそ3世帯に1世帯を構成している。黄色で網掛けした部分までの累積比は51.3%で、半数の世帯が所得250万円以下だ。これが「日本の現実」だということは、もっと知られるべきだろう。

 国立社会保障・人口問題研究所(IPSS)の2023年推計では、人口に占める65歳以上の高齢化率は2070年まで上昇するとしている。そうなると、これから40年以上にわたって労働市場から富を獲得することができないひとたちが増えていく。

 日本経済についての議論では、賃上げがインフレ率を上回って実質賃金がプラスに転じることが重要だとされている。これはもちろんそのとおりなのだが、たとえ実質賃金が増えても、高齢化によって全体の世帯所得は減っていく。実質賃金をプラスにすれば何もかも解決する、というような簡単な話ではないのだ。

 なお、所得1000万円以上の世帯も9.6%ある。これをまとめるなら、「日本社会はおよそ3世帯に1世帯が所得はほぼゼロで、およそ10世帯に1世帯が年収1000万円超」ということになる。

 ただしこの調査の対象は所得のみで、資産は含まれていない(株式や不動産などからの収入は所得に算入される)。当初所得50万円未満でも都心のマイホームなどで大きな資産を保有している世帯があるだろうし、所得1000万円以上でも多額の住宅ローンを抱えて純資産がマイナスになっている世帯もあるはずだ。その意味で、日本社会の富の分布の正確な縮図ではないことに留意しておくべきだろう。