天文15年(1546)、足利義輝は、わずか11歳で家督を継ぎ、第13代将軍に就任しました。しかし、その就任式ですら、京都ではなく、近江で行われたのです。
将軍として京に戻り、室町幕府の権威を取り戻すこと。それが、若き将軍・足利義輝の、生涯を通しての悲願となります。
三好長慶との対立と和解
義輝が将軍となった頃、京都で実権を握っていたのは三好長慶でした。従来の有力者は、将軍を傀儡として利用しましたが、長慶は将軍を排除し、自らが政治を主導しようとしました。義輝は京都を追われ、将軍の権威は完全に形骸化してしまっていました。
しかし、永禄元年(1558)に両者は和解し、義輝は京都へ復帰しました。ここから義輝は、幕府権威の回復という悲願に、真正面から挑むことになります。
とはいえ、実権は三好方にありました。名目上の将軍と実力者の緊張関係は続き、義輝は諸大名との関係修復や調停に奔走しては、「武家の棟梁」としての存在感を取り戻そうとしました。
永禄の変~剣豪将軍、最後の奮戦
永禄7年(1564)、三好長慶が死去します。後継体制が不安定になる中、翌永禄8年(1565)5月19日、長慶の後を継いだ三好義継が兵を率いて二条御所を急襲しました。いわゆる「永禄の変」です。
このとき義輝は30歳。軍記物の『足利季世記』によれば、義輝は、名刀を十数本畳に突き立て、一本抜いては敵を斬り、刃が鈍れば次を取るという、壮絶な奮戦を見せたといいます。
もちろん物語的脚色はあるでしょう。しかし、同時代の日記である『言継卿記』や『鹿苑日録』にも、「将軍、御所内で討死」と記されており、義輝が最後まで自ら戦ったことは間違いないと思われます。
足利義輝は、「剣豪将軍」とも呼ばれ、優れた剣術の腕を持つ将軍として、当時も知られていました。
鹿島新当流の塚原卜伝や、新陰流の祖・上泉信綱と縁があったともいわれますが、おそらく義輝にとっての剣術は、「武家の棟梁」としてのステイタスシンボルでもあったのでしょう。
しかし、足利義輝が、いかに剣術の達人だったとしても、二条御所に攻め込んだ敵は大軍。多勢に無勢のなか、やがて義輝は力尽き、討ち取られてしまいます。







