闇市時代には事業資金をヤクザから借りたために、ヤクザが取り立てに家まで入ってきて、父がいないと、畳に包丁を突き立て、カネを要求してきた。対応したのは留守を守る母だった。
父はヤクザと縁を切るために自動車販売業に転じた。
「父はホンダのバイクが好きだったから、ホンダと付き合いができて、ホンダが四輪をやるというので、それをきっかけにパチンコ屋を脱出してホンダの販売店をやりますってことになったんですよ。あつかましいから誰にでも会いにいっちゃう。当時、ホンダの本社が東京駅の八重洲にあって、そこに親父が“六本木のオヤジ”と呼んで慕った骨董品マニアの藤沢武夫(ホンダ)副社長に直接会いにいって、“代理店、やらせてください!”って頼み込んだんですよ。荒川区でパチンコ屋やるとき浅草のヤクザに金借りちゃったから、それを全部返して新三河島に移ったんです。土地も安かったし。車を置いておくところは安いところがいいから。世田谷とか目黒に土地を持つとか見栄を張る考えもなかった。とにかく出銭を減らす。朝から晩まで働いてましたよ」
ホンダ創業期に親交を築いた
人垂らしの接待は花街だった
創業者本田宗一郎が切り開いたエンジンは世界を制した。技術者の本田宗一郎は事務方すべてを相棒の藤沢武夫に一任し、みずからはマシン開発に没頭した。それだけ2人の信頼関係は深かった。
その藤沢武夫とホンダが生まれたてのころに親しくなり、絆を結んだ吉川圭三の父はまさしく人垂らし、情熱の人だった。
「親父は下戸なんですけど。自動車の販売って案外に人脈商売、人間関係がものをいう商いなんですよ。当時、ホンダって商売用の車ばっかりで、ある会社に10台も買ってもらったら、そりゃ向島の料亭に連れていきますよね。だから、うちの親父は下町の花街に精通してたんです。もともとのベースが荒川区、北区でしたから」
本田宗一郎は昭和初期、東京・湯島の自動車修理工場アート商会に勤め、自動車の修理技術を身につけた。
この間、仕事以外に夢中になったのが芸者遊びだった。花柳界に出入りすると男女の心理に敏感になり、また人の気持ちも忖度するようになる。
本田宗一郎の心を掴む
湯島の見送りと出迎え
戦前はおもにトヨタの下請け的な仕事が大半だったが、戦後になると、せっかく安定してきた会社を売り払ってしまった。
それからしばらくして、技術者として天才的な才能を持っていた本田宗一郎は、みずからの会社、ホンダを興すのだが、その前に、1年間、何もしないで遊んでいた。天才は奔放である。







