「本田さんは遊んでないヤツにいい商品はつくれないだろうっていってるんですよ。あの人のいう遊びというのは、明るいお酒と芸者遊びですね。クラブとかはいってなかったんじゃないですかね。本田さんからうちの親父に『なにか、吉川くんは向島とかいってるらしいな』っていう話になり『どこか、いいとこないかな』ってなって紹介したのが、お忍びでいける湯島のこぢんまりした料亭でした。本田さんはいわゆる有名どころの向島ではなく、湯島の料亭にいっていたんです。散々飲んでいたという話ですよ。

 本田宗一郎にうちの親父が『どうして、湯島を気にいったんですか?』と聞いたら、『あそこはね、お見送りがいいんだよね』っていうらしい。お見送りと、お出迎えがいいんですって。とても気持ちいいと。『吉川くん。商売で一番大事なのは最初と最後。つまり、お出迎えとお見送りなんだよなぁ』といっていた。それでうちの親父も、ショールームに車を見にきてくれる人、どうせほとんどが見物がてらできているんだけど、新興のホンダ販売店は『きていただいてありがとうございます』といって、最後はお客様が見えなくなるまで深々とお辞儀していなさいと本田宗一郎にいわれたんです。その料亭では、下足番と女将さんが、お出迎えとお見送りが上手だったらしいんです。湯島のちっちゃな料亭ですから。本田宗一郎が医師と称して和服を着て一人できていた」

 バイクメーカーから四輪に進出して、トヨタ、日産と互角に競い合い、遂にはF1レースで世界に出て優勝し、セスナからプライベート用ホンダジェットまでつくり、空まで飛び交った。

なぜ銀座のクラブではなく
湯島の芸者遊びを好んだのか

 世界のホンダ、その創業者本田宗一郎の遊び場が湯島だった。

「要するにお忍びでいくには、ちょうどいいくらいだったから。向島だったら、ちょっと目立っちゃうじゃないですか。でも湯島だと、有名人がお忍びでくるようなところがあるんですね。いま、湯島の料亭はほとんどなくなって、ラブホ街になっちゃいましたけど。お忍びで湯島にいって、玄関脇の小部屋で、2人ぐらい芸者を呼んで、こたつに入りながら飲んでたんですね。『先生、先生』と呼ばれて。

『花街アンダーグラウンド』書影花街アンダーグラウンド』(本橋信宏、駒草出版)

 それがある日、日経新聞に本田さん本人の写真が出て、それを料亭の女将が見て『大変な人がきている!』ということになって。先生(本田宗一郎)がくるという日に、本田さんの指示ではないんだけど、ホンダの社員の人たちを呼んで、広間にずらっといたんです。それから本田さんは、二度といかなくなってしまったんです。お忍びが楽しかったんですね。功成り名を遂げると、銀座のクラブとか赤坂のナイトクラブとか、そういうところにいくじゃないですか。でも本田宗一郎は、それこそ戦後からずっと1年間何もしないで遊んでいた。浜松で芸者遊びをしてたでしょ。挙句の果てには、奥さんからお金を借りて。ずっと1年間、『何をやろうかな』って、毎日毎日遊んでいたという人。それは、いろいろな本に書いてありますね」

 吉川圭三の父はもっぱら向島だった。

「親父はいろいろ接待があって、向島をよく使っていました。親父は意外とお堅い人なんで、芸者さんを囲ったりとか、浮気はしなかったと思います。すごい社交的な親父で、明るくて笑顔がよくて。商売人だから、それができたんですね。芸者さんに大人気で、吉川だから『ヨーさん』と呼ばれてたんですけど。どこの料亭でも金払いもいいし、お酒も飲まないし、乱れないし」