【大人の教養】十字軍で「戦わず勝った」異色の皇帝…世界史教師が最も推す人物とは?
十字軍といえば、武力で聖地エルサレムを奪い合った戦争を思い浮かべる人が多いだろう。しかし、歴史を変えたのは剣ではなく「会話」だった。イスラムの君主と自らアラビア語で交渉し、ほとんど戦うことなくエルサレムを確保した神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世。なぜ、そんな離れ業が可能だったのか。世界史教師・伊藤敏氏が「最も好きな人物」として挙げる理由から、中世ヨーロッパ屈指の異色の皇帝の実像に迫る。

【大人の教養】十字軍で「戦わず勝った」異色の皇帝…世界史教師が最も推す人物とは?Photo: Adobe Stock

十字軍で「戦わず勝った」異色の皇帝…世界史教師が爆推しする人物

 世界史には、無数の出来事と人物が登場する。国が興り、領土が広がり、交易が生まれ、宗教や文化が交わる。その中で、代々木ゼミナール講師の伊藤敏先生が「好きな人物」としてまず挙げるのが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世である。

「人物としては、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世という人がいます。十三世紀の前半の人です」

 フリードリヒ二世は、父方はドイツ系、母はイタリア・シチリアの出身だった。幼い頃から育ったのは、シチリア島のパレルモの宮廷である。当時のシチリア島は、カトリック、ギリシア正教、イスラムという三つの宗教が交わる、非常に国際色豊かな地域だった。フリードリヒ二世は、そうした多文化的な環境の中で育った。

「当時のシチリア島は、カトリックとギリシア正教、あとイスラムの三つの宗教が混ざる、すごく国際色豊かな地域でした」

 そのため、フリードリヒ二世はヨーロッパの言語だけでなく、アラビア語も話せたとされる。ギリシア語、ラテン語、そしてアラビア語。複数の文化圏にまたがる言語感覚を持っていたことが、彼の行動にも大きく影響した。特に象徴的なのが、十字軍でのエルサレム確保である。

 当時、十字軍は停滞していた。キリスト教勢力が聖地エルサレムを奪還することは、ほとんど夢のような状況だった。ところが、フリードリヒ二世はイスラムの君主と直接交渉し、十年間エルサレムを確保することに成功した。しかも、ほとんど戦っていない。

「彼はイスラムの君主と直接アラビア語で交渉して、十年間エルサレムを確保することに成功したんですね」

 戦争ではなく交渉で聖地を確保する。しかも通訳を介さず、自らアラビア語で交渉する。伊藤先生は、そこにフリードリヒ二世の型破りな魅力を見る。

「ほとんど戦っていないんです。しかも交渉で、しかも本人が通訳抜きでアラビア語で、という。まさに型破りな人物ですね」

 では、なぜ戦わずにエルサレムを確保できたのか。伊藤先生によれば、当時のイスラム側、アイユーブ朝にとって、エルサレムは必ずしも手放せない経済拠点ではなかった。もちろん宗教的な聖地としては重要である。しかし、そこを保持していることで、断続的に十字軍がやってくる。そうなれば、軍事費もかかる。一方で、エルサレムを持っていることが、交易上大きな利益を生むかというと、そこは微妙だった。

「確かに宗教的な聖地としては重要ですけど、持っているせいで断続的に十字軍がやってくるじゃないですか。そうすると、その分だけ軍事費を割かなければいけない」

 エジプトには、インド洋につながる海の道の貿易収入もあった。そう考えると、エルサレムを維持し続けることは、必ずしもコストに見合うものではなかった。ただし、聖地を完全に譲り渡すのは、イスラムの盟主として外聞が悪い。だからこそ、十年という期限付きで、貸し出すような形の妥協が成立したのではないかと伊藤先生は見る。

「完全に譲り渡すのは、やっぱり外聞として問題なので、十年という期限付きで、一旦貸し出すのに近いですけれども、そういった形で妥協ができたんだと思うんですね」

 フリードリヒ二世の魅力は、軍事や外交だけにとどまらない。彼はドイツではなく、イタリア、特に生まれ故郷であるシチリア島に宮廷を定め、ドイツにはほとんど帰らなかったと言われている。その宮廷には、カトリックの廷臣だけでなく、イスラム教徒の官僚もいた。中世ヨーロッパとは思えないほど、国際色豊かな宮廷だった。

「シチリア島の宮廷には、たとえばカトリックの廷臣がいたり、あるいはイスラム教徒の官僚がいたりという、中世のヨーロッパとは思えないくらい、非常に国際色豊かな宮廷を築きました」

 さらに、フリードリヒ二世は文化を非常に奨励した人物でもあった。その代表例として挙げられるのが、世界遺産にもなっているカステル・デル・モンテである。伊藤先生はこの城について、「めちゃめちゃ綺麗なお城」と語る。このカステル・デル・モンテは、ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』に出てくる図書館のモデルになったとも言われている。

「彼自身が文化を非常に奨励していたので、たとえば世界遺産にもなっているカステル・デル・モンテは、八角形の中庭にさらにその各頂点にも八角形の小塔が組み合わされた、高度に洗練されたデザインも花開いたわけです」

 また、彼の治世にはサレルノ大学が公認された。サレルノ大学は、中世最大の医学校の権威として知られる存在である。つまりフリードリヒ二世は、政治や軍事だけでなく、学問や文化の面でも大きな足跡を残した人物だった。

「彼の治世にサレルノ大学という大学が公認されていて、これは中世最大の医学校の権威として知られています。そういった文化事業の面での貢献度も、非常に高い人物ですね」

 フリードリヒ二世は、カトリック、ギリシア正教、イスラムが交わるシチリアで育ち、宗教や言語の壁を越えて交渉し、文化を奨励した。一つの国や一つの地域の中だけでは理解できない。地図を広げ、宗教、交易、文化、人の移動を重ねて見たときに、その面白さが立ち上がってくる。

(本稿は『地図で学ぶ「深読み」世界史』著者へのインタビュー記事です)