私も、小学生の頃に、祖父が日課にしている散歩から戻ってこなくて、大騒ぎになり、家族総出で探し回って、地元のラジオでも放送してもらったりしていたら、夕暮れになって、街中の横断歩道で停まったパトカーの前をすたすた歩く老人(祖父)が発見された、といったことがありました。
認知症になると、そんな行動をするのかと、子ども心に、得体の知れない怖さと畏れを感じました。そして、その“大きな誤解”が解けるのに、何十年もかかりました。
その認知症に対する私の「誤解(偏見)」が払拭されたのは、当事者(認知症の人本人)の力によってでした。私が、そして世界が、認知症の人には(にも)、その人固有の心の世界があることを、オーストラリアの一人の女性が語ってくれたのです(クリスティーン・ボーデン『私は誰になっていくの?――アルツハイマー病者からみた世界』桧垣陽子訳、クリエイツかもがわ)。
認知症になっても消えない
その人固有の心の世界
彼女は、認知症になっても、心があり、さまざまな思いがあり、それらの思いを大切にすることが、何よりも大事であることを、語りました。
いまとなっては当然のことなのですが、「痴呆」になった祖父は、別人となった、と思っていた私は、そして、認知症に取り組んでいた私たちの研究実践グループは、衝撃を受けたのです。
そして、徘徊とか、介護拒否とか、物盗られ妄想とか、それまで、認知症の人の症状と言われていたBPSD(認知症の行動・心理症状)と言われていたものが、症状という見方ではなく、本人の訴えであり、支援の糸口として捉えることの重要性に、世界が気づき始めます。
この大転換した考え方を、「パーソンセンタードケア」ということもあります(トム・キットウッド『認知症のパーソンセンタードケア』高橋誠一訳、クリエイツかもがわ)。
もう、気づいていただけたかもしれません。徘徊の中には、実は、散歩している場合もあるのではないか、ということです。
散歩することで、いろんな景色と出会ったり、左右の足を出すことで、移動していって、達成感があるかもしれません。散歩を通して、いまを生きているという感覚を、ただ感じているということでしょうか。いまという時間を身体のリズムの中につなぎ直す営み、といってもよいかもしれません。







